Chapter6 鍵を握る悪魔
1:国王の病
ランプの明かりの下、ぺらぺらと羊皮紙で作られた本を捲る。
暫く前から再開した情報収集。
自分の担当はやはりマジック共和国の王立図書館のこの部屋――王族や城の高官以外の人間が入ることのできない最深部の書庫だ。
ここ数か月、毎日のようにここに篭っているペリドットは、今まで読んでいた本を閉じるとため息をついた。
「つ~か~れ~たぁ~」
思い切り大きな声でそう呟いても、彼女以外誰もいないこの場所で返事が返ってくるはずもなく。
その事実が彼女の機嫌をどんどん悪い方へと引き摺っていく。
「そもそも!もう半年近く通ってるのに、なーんで半分しか見終わらないのさっ!!」
ばんっと近くの棚を叩いて叫んだ。
古文書や禁断の書物など、世界の古い時代の書物を収納したそこは、魔法の知識の宝庫だ。
宝庫だけあって、広い。
一般開放されている部分だってかなりの広さであるのだけれど、この書庫だってかなりの広さだ。
吹き抜けになっている部屋には、いくつもの本棚が天井まで伸びている。
その本棚の全てに隙間なく本が詰まっていた。
「うあ゛~」
改めてその本の多さを確認してしまったペリドットは、天井を見上げたまま奇妙な声を上げる。
半年も通ってまだこの半分しか終わっていないのだ。
あと半分を読み終える頃には、通い始めてから1年経ってしまっているだろう。
それも、順調に行けば、という話で、途中でトラブルが起これば、また暫くここに来ることが出来なくなってしまう。
「……もうやめよっかなぁ……」
自分からここで調べ物をすると志願したわけなのだが、ここまで何も有力な情報が手に入らずにいると、いくらペリドットでも飽きてしまう。
こんな気分になってしまったら、これ以上続けても効率が落ちる上に流し読みになってしまう可能性大だ。
今日はここまでにしようと決め、手にしていた本を本棚に戻すと、ペリドットは乗っていた脚立から降りようとした。
ちょうどそのとき。
「ペリートっ!」
突然、ペリドット以外誰もいないはずであった図書館の中から、もうずいぶんと聞き慣れた友人の声が聞こえた。
「アールちゃん?」
不思議そうに脚立に乗ったまま身を乗り出す。
ちょうど入ってきたばかりであったらしいアールは、その声が届いたのか、きょろきょろと辺りを見回した。
「こっちだよ~」
そう声をかけると、ペリドットはかなり高い脚立の上から飛び降りた。
ずっと彼女の周りを浮遊していたオーブが、その落下コースに割り込む。
一瞬にして円盤状に変化したそれに、見事にペリドットは着地した。
そのままゆっくりと、アールの立つ場所に向かう。
「お前……!?いないと思ったら……!!」
「まあまあ。で?どうしたの?」
突然上から降ってきたペリドットに思わず瞠目すると、アールは苛立ったように言う。
そんな彼女の言葉をあっさりと遮ると、ペリドットは小首を傾げて尋ねた。
するとアールははっとしたように表情を変え、慌てた様子でペリドットの手を掴む。
「ちょっと一緒に来てくれ」
「ふえ?」
「見てほしいものがあるんだ」
「うん……。わかった」
アールのその言葉に、首を傾げながらもペリドットは頷いた。
元々書物を読むという一定の動作に飽きて、投げ出してしまおうかと考えていたのだ。
気分転換になるだろうアールの誘いを断る理由なんて、彼女にはなかった。
そんな風にお気楽に考えていたペリドットは、想像もしていなかった。
これがただの気分転換では終わらなくなるということを。
連れて行かれた先は、この王城の奥。
王族の居住区とされ、一般人の立ち入りが禁止されている後宮だった。
もちろん、アールとリーナの友人であるペリドットは、何でも入ったことのある区域だ。
けれど、やってきた部屋は、その中でも一度も足を踏み入れたことのない、この城の中でも最も大きな扉を持つ部屋で。
さすがのペリドットも驚いて、自分をここまで無言で引っ張ってきたアールを見上げた。
「ここはシルラの部屋だ」
視線に気づいたアールが、妙に淡々とした口調で告げる。
その答えに、ペリドットはまた別の意味で驚いた。
シルラ=ラル=マジックは、アールと血の繋がった弟で、この国の現国王だ。
ということは、ここは国王の私室ということになる。
どおりで扉が無駄に大きいはずだと納得したペリドットは、すぐに別の疑問を感じて首を傾げた。
「何でシルラ君の部屋?」
見てほしいものがあると言われたとき、連れていかれる先はてっきりアールかリーナの部屋だと思っていた。
他人に――それも他国の民間人に見せるようなものを、他の部屋に置くことはしないだろうと、ペリドットはそう考えたのだ。
「入ればわかる」
それだけ答えると、アールは部屋の扉を叩いた。
その途端に「はーい」と帰ってきた返事に、ペリドットは思わず目を瞠る。
もうずいぶん耳に馴染んだ声だ。
いくら普段はそそっかしいペリドットだって、それを聞き間違えるはずがない。
あれは紛れもなく、リーナの声だった。
アールの義理の妹である彼女が、やはり義理の弟になるのだろうシルラの部屋にいても不思議ではないはずだが、彼女だって一応この城に使える宮廷魔道士のはずだ。
勤務時間であるだろうこの時間に、その彼女がどうしてここにいるのだろう。
「入るぞ」
ペリドットの疑問に気づくこともなく、アールはそう声をかけると、そのままノブに手をかけ、その巨大な扉を開いた。
瞬きながらそれを見つめていたペリドットは、その音にはっと我に返る。
無言で中に入っていくアールを追いかけ中に入った途端、彼女は僅かに目を瞠った。
そこは国王の寝室に直接繋がる扉だったらしい。
入った途端に目に入ったのは、天蓋付きの大きなベッドだった。
エスクール城でも何でも見たそれは、しかし国王の物であるだけあって、王子であるリーフや王女であるミューズのものよりずっと大きくて立派だ。
その傍らに椅子を置き、こちらを振り返ったのは、間違いなく彼女がよく知るリーナだった。
しかし、その表情はいつもと違い、どこか愁いを帯びているように見える。
「お姉様……ペリート様……」
明るい桃色の瞳で2人の姿を捉えた途端、彼女はため息の混じったような声で2人を呼んだ。
「様子はどうだ?」
無言のまま彼女の隣に立ったアールが、やはり沈んだ口調で尋ねる。
後ろにいるペリドットからでは彼女の顔は見えなかったけれど、頭の角度から考えて、その視線はベッドの上に向けられているのであろう。
ということは、シルラはベッドの上で眠っているのであろうか。
「先ほど漸く寝ついたところですわ」
ペリドットの予想を肯定するかのようにリーナが答える。
その声も、やはり沈んでいるように思えた。
「何?シルラ君、病気?」
これ以上この場の雰囲気を沈めないようにと、ペリドットはわざといつもの軽い口調で尋ねる。
「ああ……」
返っていたアールの返事は、こちらのそんな意図に全く気づいていない暗い声で、ペリドットは思わずため息をつきたくなった。
それを何とか我慢してベッドに近づき、中を覗き込む。
アールと10歳違いの幼い国王は、ベッドの中央で、ふわふわの布団を肩までかけて眠っていた。
その顔は蒼白で、誰が見ても具合が酷く悪いのだろうということがわかる。
「ありゃりゃ~」
その顔色に、ペリドットは思わず小さく声を上げた。
20年もの間自分が王家の人間だということはもちろん、本当の両親の顔も知らずにリーナの家で育ってきたアールが、実の弟であるシルラを溺愛していることは、ペリドットも当然知っていた。
その彼がこんな状態で寝込んでいるのでは、アールの表情が暗いのも無理もないだろう。
「ずいぶん顔色悪いね。何の病気?」
口調はそのままに、表情だけを真剣なものへと変えて、尋ねる。
答えたのは、シルラに視線を落としたままのアールだった。
「最初は風邪だと言われたんだが……」
「最初は?」
アールの言葉に引っかかりを覚え、ペリドットが尋ね返す。
それに答えたのはリーナだった。
「ええ……。途中で、これは中毒症状じゃないかと、お医者様に言われたんです」
「中毒って、食べ物?」
「だと思うのですが……」
どうにもはっきりしない彼女の物言いに、ペリドットは首を傾げる。
「何か気になることもあるの?」
「ええ……」
少しだけ声を低くして尋ねれば、リーナはアールを窺いながら、戸惑った様子で口を開いた。
「シルラ様とアール姉様は王族ですから、城内での食事は必ず毒見をしてからお出ししますの。ですから、食事にそういった症状を出すものがあるとは考えられないのですけれど……」
「じゃあ外は?シルラ君、昔は脱走癖があったんだよね?」
まだこの国が世界を支配する帝国だった頃、生き残っていた唯一の皇族であるが故に、何もわからないままお飾りの皇帝にされたシルラは、王族と一部の側近しか知らない隠し通路を使い、ちょくちょくと城外へ遊びに行っていたという。
自分たちも彼が教えてくれたその通路のおかげで、何の障害に当たることもなく、当時この国を支配していた女が居座る玉座の間に辿り着いたのだ。
今でもその道を使って抜け出しているのではないかと思い、尋ねる。
しかし、その問いにリーナは首を振って答えた。
「シルラ様、今はお姉様の管理する休暇以外の時間はちゃんとお仕事をされていますし、外に行かれる場合も必ず誰かが一緒で、同じものを食べているそうですわ。ですから、その可能性も低いと思うんですけど……」
「でも実際に中毒起こしてるんでしょ?」
「それは……、そうなのですが……」
ペリドットの問いに、リーナは歯切れ悪く答える。
それにわからないようにため息をつきながら、ペリドットは周囲を見回した。
毎日掃除がされているのだろうこの大きな部屋は、日当たりもよい。
こうやって常に誰かが付いていてくれるなら寂しいこともないし、病人にはいい環境、と言えるのかもしれない。
けれど、その良い環境も、このままでは台無しだ、と思う。
食べ物でないとしたら、他に原因になりそうなものはないのだろうかと、室内を見回していたペリドットは、ふとベッドサイドのコンソールの上に置かれた紙袋を見る。
茶色いそれは、この世界ではよく使われている薬を入れる袋だ。
まだ本などは羊皮紙が使われることが多いけれど、こういった体に作用するものは、20年ほど前から木からできる紙で作られるようになったのだと、そう教えてくれたのは確かミューズだった。
「それが薬?」
「え?ああ、そうだ」
一瞬ペリドットが何を示したかわからなかったらしいアールは、窓辺のそれを認識するとはっきりと頷く。
「ふ~ん。ねぇ、それどこのお医者さんの?」
「ええっと、確か以前の専属のお医者様が昨年亡くなられて、最近評判の新しいお医者様に……」
そこまで言ったリーナが、突然表情を変えてペリドットを見る。
「まさか、ペリート様……」
「食べ物が違うなら、疑う理由はあると思うよ?」
あくまで可愛らしく首を傾げるペリドットの、しかし真剣な声に、リーナは思わず息を飲んだ。
アールも驚いたようにペリドットを見つめている。
「そのお医者さん、昔からこの城下にいる人?」
「……いいえ。確か最近スターシアから移住されてきた方ですわ」
ペリドットの問いに、リーナが神妙な顔つきで答える。
その答えにアールが目を見開いたその瞬間、ペリドットは深いため息をつき、言った。
「ずいぶん動揺してたんだね、アールちゃん」
ふざけた様子など微塵もない声で名を呼ばれ、アールは愕然とした様子でペリドットを見る。
「真っ先に思い浮かばなきゃなんない可能性じゃん、これって」
その通りだった。
まだ11歳だろうが、シルラはマジック共和国の国王だ。
いくら姉であるアールが帰ってきたからと言って、男児が王位継承権を優先的に持つこの国において、シルラ自身が生きている限り王位交代の可能性などないにも等しい。
さらに、アールは以前この国を支配していた女に仕えていたことを罪と考え、王族としての地位には付いているものの、王位継承権は放棄している。
シルラに何かがあれば、彼女はその放棄宣言を取り消すつもりなのかもしれないが、現状において、シルラさえいなくなってしまえば、戦後も大国として君臨するこの国の王位継承者はいなくなってしまうのだ。
もしこの国を鬱陶しく思っている輩がいるとすれば、シルラの命を奪おうとするのは、当然の選択だといえるだろう。
「その薬、貸して」
右手を差し出しながら、ペリドットが言う。
その言葉に驚いて、アールは尋ねた。
「どうするつもりだ?」
「今の状況じゃあ、予想は予想でしかないっしょ?ここは一発、薬のエキスパートに分析を依頼しようと思って」
そう説明するペリドットの脳裏に浮かんだのは、ほとんどこちらに来ることのないミスリルの姿だった。
父の家系がエスクールで有名な薬師であり、また自身もかなりの調合の知識と腕を持つ彼女ならば、きっとペリドットの立てた仮説の正否を解き明かしてくれるだろう。
魔燐学園の化学部の設備も、高校にしてはかなり充実したものだから、化学的にも薬の成分を調べられるはずだ。
リーナが惑ったようにアールを見上げる。
暫く考えるように薬を見つめていたアールは、不意に顔を上げると、しっかりと頷いた。
「わかった。頼む」
「お任せあれ~」
実際に頑張るのはミスリルのはずなのだが、ペリドットはさも自分がやるのだといわんばかりに胸を張り、優雅に一礼して見せた。
コンソールに置かれた袋を手に取ったリーナが、椅子から立ち上がり、それをペリドットに手渡す。
「よろしくお願いします、ペリート様」
「うん。なるべくこっちの1週間以内に答えを持って来れるようにがんばるから」
あくまで頑張るのはミスリルだというのに、ペリドットは明るい笑顔でそう告げる。
こちらの1週間は、アースにおいて2週間だ。
それだけ時間があれば、いくら時間のかかる検査でもミスリルならばできるだろうと、そのときのペリドットは考えていた。