Chapter6 鍵を握る悪魔
4:診療所
「それにしても、珍しいよね。こんな大きな街で診療所」
城から地図に記された場所に向かう道中、ペリドットが唐突に言った。
「そうね……。そもそも医者という職業を専門としていること自体、こっちでは珍しいはずだわ」
医療というのは、本来法術師や神官――それも教会に所属している者たちが担っている分野だ。
教会所属でもない者が、それも医者という、この世界では基本的に城仕えの法術師を示す職名を名乗って営むことは滅多にいない。
田舎の小さな村に住む法術師が時折そう名乗っていることはあるが――とにかく、こんな都会の街にはいるはずのない職なのだ。
「もしかして、だから物珍しくてたくさんの人が行き始めたとか?」
「かもしれないわね。報酬も、教会のより安いみたいだし」
「……精霊神殿、そんなに高く取ってたっけ?」
「身分によると思うわよ。あの神殿、かなり大きいから、維持費も大変だろうし」
マジック共和国王都、聖職者区にある精霊神殿。
かつて精霊神マリエスが降り立った際に建てられたというそれは、建物もそうだが、組織的にもかなりの大きな場所で。
国営であり、国所属の騎士で構成される聖騎士団をその内部組織として持っているがゆえに、国から運営資金が出ているはずだけれど、解放戦争の際に知り合った神殿の副神官長によれば、それでも資金は足りていないらしい。
礼拝者からの寄付金と診療の料金でそれを補っているらしいが、当代の神官長は乱暴なのに優しい性格をしていて、きちんと仕事ができる人たちからしか診療の料金を取らないというから、実際はどんな人間からどれくらいの料金を取っているかなんて、部外者である自分たちにわかるはずもなかった。
「うーん……。何かいい加減だぁ」
「まあ、それで神殿の維持に影響が出るようならアールが注意をするだろうから、いいんじゃない?」
「……そんなもん?」
「たぶんね。こっちの政治が本当はどんな感じなのか、全く知らないけど」
「そんな適当な……」
いい加減なミスリルの言葉に、ペリドットはため息をつく。
以前リーフと2人だけで旅をして帰ってきた後、暫く落ち込んでいたミスリルは、リーナが持ってきた手紙をきっかけに何を吹っ切ったらしいのだが、どうやらそのときから物事を軽く考えるようになってしまったらしい。
以前は誰かが可能性を指摘しない限り、確信を持てない予想だけで物事を判断することは決してなかったのに、最近はこうやって軽く冗談めいた様子で自分の予想を口にするようになった。
硬すぎたミスリルにとっては良い傾向なのだろうけれど、未だその変化に慣れていないペリドットは、彼女がそんな言動を見せるたびに調子が狂ってしまっていた。
そもそも、そんな風に周りの調子をおかしくするのは自分だけであったはずなのにと、全く関係ないことまで考え始めたペリドットは、ミスリルに声をかけられるまで目的地に着いたことに気づかなかった。
「ちょっとペリート!どこ行くの?」
「ふへ?」
その声に驚いて足を止め、振り返ると、ミスリルが立ち止まってこちらを睨んでいる。
そのすぐ側には、何故か長蛇の列を作っている人々がいて、その人たちの顔色の悪さにぎょっとした。
「な、何なに?何なのこの列?」
「大方例の診療所の順番待ちでしょうね」
「ええっ!?」
ミスリルの口から飛び出した答えに、ペリドットは思わず声を上げる。
「そんなぁ!具合悪いのに、外で立って並んでるなんておかしいよ!」
「それくらい評判がいいってことなんでしょうね、その『医者』は」
「でもこうやって待つくらいなら、精霊神殿行けばいいのに……」
きょろきょろと並ぶ人々の顔を見回して、ペリドットが呟く。
『医者』と呼ばれる人物が営むその診療所は聖職者区に存在していて、もう少し先の広場には多くの神官が働いている精霊神殿があるはずだ。
「この状況、アールのせいでもあるかもね」
「え?何で?」
ミスリルの呟きに、ペリドットはわからないといわんばかりの視線を向けた。
「王家御用達の診療所って聞けば、誰だって信用したくなると思わない?」
「あ……」
確かに、この国のトップが信頼をしている人物ならば、その国に住む人々が頼りたくなるのも頷ける。
その信頼がとっくに失われた過去のものであることを、この街の人々は知らないのだから。
「多分、王家御用達の医師はまた精霊神殿の法術師から選ばれることになるだろうけど……、今はまだこの診療所の医者がそうなんだから。公には、ね」
「ううーん。何か悔しいなぁ……」
あくまで冷静なミスリルの意見に、ペリドットは列の前方を見つめながら拳を軽く握った。
もうアールたちはここの医者を信用するどころか捕まえる算段を立てているというのに、医者自身はそ知らぬ顔で『王家御用達』などと言っているのが悔しい。
表向き王家とは何の関係もない自分たちがそんなことを叫んだって無駄だとわかっているから、決して大きな声で口にしないけれど、それでも悔しいものは悔しいのだ。
「まあ、別にいいんじゃない」
ずいぶんと軽い口調で言ったミスリルを、ペリドットは睨んだ。
てっきり使い方によっては毒となるグールパウダーを平気で『薬』と呼んで処方している医者に怒りを抱いていると思ったのにと、そんな思いで視線を向けた途端、ペリドットは唖然として目を瞠った。
「これから営業できなくなるどころか、牢獄行きになるんだからね」
そう言って顔にかかった前髪を掻き揚げたミスリルは、くすくすと笑っていた。
これは滅多に浮かべることのない、彼女が本気で怒っているときの笑みだ。
「ミ、ミスリルちゃん。手加減しようね……?」
自分もこてんぱんにやっつけるつもりだったペリドットは、しかしそんな笑顔を浮かべるミスリルに向かい、顔を引き攣らせながらそう告げていた。
長い長い列の一番前まで行くと、そこは意外にも、こじんまりとした小さな家だった。
てっきり巨大な豪邸を構えていると予想していたペリドットは拍子抜けし、ミスリルはその入口の周りを見回して、しきりにため息をついている。
「外に椅子がひとつもないわね……」
「お客が並ぶってわかってるんだから、その辺のお店からいなくなった木箱でも貰ってくればいいのに……」
診療所に並ぶ人々は、後方の人々と同じように具合の悪そうな顔のまま、立ってその列に並んでいた。
せめて地面に座ればいいのにと思うが、一度座ってしまうと立ち上がれないのかもしれないと思い直す。
それくらい顔色の悪い人も列の中にいたのだ。
「さぁて、どうしようか?」
「決まってるわ。乗り込むのよ」
くるりと振り向き、わざとらしく首を傾げて見せたペリドットに、ミスリルはきっぱりと答える。
あまりの即答ぶりに、さすがのペリドットも苦笑を浮かべた。
「ああ……。やっぱりいきなりそうなるんだ?」
「他にどんな方法があるっていうの?」
「列に並ぶとか?」
「抗議に来たのに律儀に並んでどうするわけ?」
「それもそうでした」
あははと笑いを漏らしながら、ペリドットは真っ直ぐに診療所であるらしい建物を見た。
ちょうど中から診察の終わった患者が出てきて、並んでいる患者の1人が中へと入る。
その瞬間、顔を見合わせた2人は、開いた扉に向かって歩き出していた。
通常より早い歩調でずんずんと扉の前に進み、患者が閉じようとしていたそれをペリドットが掴む。
驚いて振り返る患者を無視して、ペリドットはその扉を音を立てて開け放った。
「たのもーっ!!」
あまりに古典的なその言葉は、思ったより診療所の周囲に響いたように思う。
その途端、待合室に使っているのだろう部屋にいた人々がざわめき、こちらを見た。
しかし、人の視線に十分慣れてしまっているペリドットは、そんなことには構わず、もう一度息を吸い込むと、屋内へと向かって怒鳴るように叫んだ。
「たのもぉーっ!!!」
先ほどよりもずっと大きな声で叫ぶと、漸く奥の扉が開き、白衣を着た女性が飛び出してくる。
リーナの話では、ここの医師は男であるらしいから、おそらく彼女は助手か何かなのだろう。
「何ですかあなたたちは?診察希望の方は外で……」
「マルロウ医師に面会を」
「ですから、診察希望の方は外の列に……」
「別に見てもらいたくて来たんじゃないよ!あたしら、どこも悪くないし」
びしっと子供っぽい仕種で指を突きつけて言い切ったペリドットから滲み出る、その口調とは全く違う気迫に、助手は思わずびくりと体を強張らせる。
しかし、そこはさすが悪徳医師の助手と言ったところか、見た目や仕種は実年齢以下のペリドットに臆してしまう女ではなかった。
「診察希望でないのならばお取次ぎできません。お引取りください」
はっきりと言い切った助手を、ペリドットはあからさまに不機嫌な表情で睨む。
そんな彼女の肩に手を置き、押し留めると、ミスリルは真っ直ぐに助手を見つめた。
「私は以前エスクールで薬剤店を営んでいた者です。こちらが処方している薬について、お聞きしたいことがあります。今すぐマルロウ医師に面会を」
処方した薬と告げた瞬間、助手は僅かに目を瞠る。
些細な変化であったが、ミスリルとペリドットは共に天性の資質を持った戦士だ。
どんなに小さなものでも、『敵』として見ている相手のその変化に気づかないはずがない。
「そういったご用件は診察が全て終わりましたらお聞きします。診療所内は患者の皆様でいっぱいですので、どうぞお時間になるまでは他の場所でお待ちください」
「えー?思いっきり動揺しておいてすぐに対応できないのー?」
助手の少し乱暴な、遠まわしの拒絶に、ペリドットがわざとらしく声を上げ、抗議する。
その口調がいつもより幼い気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
彼女の言葉に助手が再び動揺したのを、ミスリルはもちろん見逃さなかった。
「先日、友人がこちらから処方された薬を、誤って家の近くに住み着いている猫に与えてしまいました」
「え?」
「猫ちゃんにあげてるご飯に零しちゃったんだってさぁ」
唐突に話し出したミスリルの話――もちろん思い付きのでまかせだ――に合わせて、ペリドットがわざと大きな声で補足をする。
「その食事を食べた猫は、突然苦しみ出して、怪物に姿を変えてしまったそうです」
静かに告げられたミスリルの言葉に、今度は助手だけでなく、周りにいた患者が声を上げた。
「か、怪物にっ!?」
「ちょ……っ!タチの悪い冗談はやめてくださいっ!」
周囲から上がった怯えの声に、助手は慌てた様子でミスリルに向かって抗議をする。
そんな彼女の様子など気にも止めずに、ミスリルは右手に巻かれた包帯に手をかけた。
「たまたま彼女は魔物との戦闘経験があったために大事には至らず、猫を殺すことで難を逃れました。そして……」
シュルッと音を立てて包帯が外れる。
ゆっくりと、見せ付けるように持ち上げられたその甲には、白い肌を引き裂いた、赤黒い大きな引っかき傷があった。
「たまたまその場に居合わせた私も、こうして怪我を負いました」
まだ完全にかさぶたのできていないその傷を見た瞬間、ミスリル本人とペリドット以外の人々が思わず息を飲む。
「たかが人間の飲む薬を与えたところで、猫は怪物にはなりません」
はっきりと言い切ったミスリルの言葉に、愕然としていた助手ははっと我に返る。
「では何故猫が怪物化してしまったのか?私はその理由をお聞きしたいのです」
真っ直ぐに助手を見つめる茶色の瞳には、明らかに怒りが宿っていた。
いくら戦闘に全く関係のない素人でも、はっきりと感じられる怒気。
言葉が紡がれると共に強まっていくそれに、助手の女性が明らかに怯え出す。
普通の人間が、ここまでの怒気――それも殺気を含んだそれ――に晒されることなど、まずないだろう。
わかっていて、わざとそう言った気配を向けているミスリルは、鋭い瞳をすうっと細めると、先ほどよりも低い声で言った。
「マルロウ医師に面会を」
そのあまりの声の低さに、発せられる怒気に、助手が「ひっ」と声を上げかけたそのときだった。
「もういいですよ」
突然診療所の奥から声が響いて、ペリドットとミスリルははっと奥に視線をやる。
「ジョルディ先生っ!?」
同時に後ろを振り返った助手が、泣き出さんばかりの声で声の主を呼んだ。
先ほど彼女が出てきた扉の前に、誰かが立っている。
足元に小さな子供を連れたその男は、予想していたよりもずいぶん若く、白衣を身に纏い、こちらの世界では珍しい眼鏡をかけていた。
「ジョルディ=マルロウ医師ですね?」
手を下ろしたミスリルが、慎重な口調で尋ねる。
そのとき、ふと違和感を感じて、ペリドットは彼の足元にいる幼い少年へと視線を移した。
僅かに青の混じった翠の瞳で自分をじっと見つめてくる少年。
その気配を知っているような気がして、ペリドットもじっと少年の顔に見入ってしまう。
しかし、どう頭を捻っても思い当たる顔などなく、不思議に思って首を傾げようとしたそのときだった。
「ええ、そうです」
眼鏡の男の言葉に、はっと顔を上げる。
その途端、一瞬忘れていた怒りが再び沸き上がってきて、ペリドットはマルロウと呼ばれた男を睨みつけた。
「単刀直入にお聞きします」
すっと、ミスリルが懐に入れていた紙包みを取り出す。
開いたそれには、あの僅かに紫色に色づいた粉剤――グールパウダーが収まっていた。
「これはグールパウダーですね?」
静かに告げられたその言葉に、周囲の患者が再び驚愕の声を上げる。
ミスリルの言葉に僅かに目を瞠ったマルロウは、しかし動じることなくにっこりと笑った。
「さあ?どこにそんな証拠が?」
彼の言葉に、今度はミスリルが僅かに目を瞠り、ペリドットは驚きの表情を浮かべ、無言で拳を握った。
「とぼけるおつもりですか?」
「とぼけるも何も、私は知りません」
「じゃあ!猫ちゃんのことはどう説明するつもり!?」
子供っぽい口調のまま、怒ったようにペリドットが尋ねる。
「その肩が食事を上げる際に、たまたまどこからか飛んできたグールパウダーが混ざってしまったのでしょう?いえ、案外その方が持っていらしたのかもしれませんね」
事も無げに言い切ったマルロウの言葉に、ミスリルは目を細め、ペリドットは先ほどよりも強く拳を握った。
予想どおりというべきか。
この男は、シルラに毒であるこの薬を盛ったことに罪悪感など抱いてはいない。
ふうっと大きく息を吐いたペリドットが、攻め方を変えようと顔を上げたそのときだった。
マルロウの服の裾を掴み、その影に隠れるように立つあの子供が、薄っすらと笑っていた。
まるで勝ち誇ったかのようなその笑みに、何故か怒りが沸く。
思わずむっとしたペリドットは、しかしその怒りに違和感があることに気づいて、目を丸くするとまじまじと子供の顔を見つめた。
その反応には子供の方も驚いたらしく、僅かに目を瞠ったかと思うと、楽しそうに目を細め、口の端を持ち上げる。
あの年齢の子供には似つかわしくないその笑みにペリドットが驚くと、子供は声を発しないまま唇を動かした。
相変わらず聡いね。さすがだよ。
音を発していないその唇は、そう言葉を表現した、ような気がした。