Chapter7 吸血鬼
8:忘れた記憶
鈴美の後ろ姿が廊下の向こうに消えるのを待って、紀美子は理事長室に戻った。
扉を開けて中に入った途端、深刻な表情を浮かべている姉の姿が目に入って首を傾げる。
「姉さん?どうしたの?」
「気にしない方がいいわ」
扉を閉めてから尋ねても、赤美は答えてはくれなかった。
代わりに耳に届いた声に、紀美子は思わず声の主を見る。
「美青先輩……」
「あいつ、こういうときはいつもああだから」
ため息をつきながらそう言う彼女の言葉の意味がわからなくて、思わず首を傾げる。
それを見た美青は苦笑を零した。
「心配なら一緒に行けばいいのに」
「誰がよ誰が」
「あるぇ?あたしはセキちゃんとは一言も言ってないけどぉ?」
実沙の言葉に思わず反論してしまった赤美は、返ってきた言葉にほんの少しだけ目を見張ったように見えた。
「……ちっ」
そのまま舌打ちをして顔を背ける。
「姉さん……」
「あれもいつものことよ」
思わず咎めようとして、すぐ側から聞こえた言葉に紀美子は驚いて美青を見る。
「まあ、みんなの前では初めてかもしれないけど」
付け足された言葉で理解した。
姉は、みんなの前ではそんなことは言っていなかったけれど、そうではないところではいつもこうだったということか。
実沙のときも沙織のときも、おそらくは百合のときも。
「あら?」
もっとみんなの前で言ってもいいのにと、思わずため息をつこうとしたそのときだった。
ふと視界に入った姿に、紀美子は首を傾げる。
「陽一先輩?どうかしましたか」
「え?あ、いや。何でもないよ」
声をかけると、陽一は肩を思い切り跳ねさせて顔を上げた。
その視線が、動く。
おそらく室内を見回しているのだろう。
「鈴美はもう行ったのか?」
「ええ」
暫くして口にされた問いに、それすら気づいていなかったのかと思う。
何か、よっぽど大切なことを真剣に考えていたらしい。
短く答えれば、彼は「そうか」と呟いて俯いてしまった。
「先輩……?」
「いや……。ってことはもうあっち行っちまったよな」
「いえ、部屋を整理するって言ってましたから、これから一度寮に帰るんだと思います」
「そうなのか?」
「は、はい」
がばっと顔を上げ、尋ねた彼に返した返事は反射的な一言だった。
けれど、彼にはそれだけで十分だったのか、それ以上は聞くことなく、再び俯いてしまう。
「先輩?」
「悪い、ちょっと行ってくる!」
もう一度呼びかければ、彼は再び勢いよく顔を上げた。
そのまま脇をすり抜けたたかと思うと、扉に向かって駆けていく。
「あっ!ちょっと陽一!」
扉に手をかけたところで、それまで同じように俯いて勘が込んでいた赤美が、彼を呼び止めた。
「何だ?」
「あんた、最近新藤に似て口悪くなってる」
返ってきた予想外すぎるその言葉に、陽一は思わず顔を思い切り歪めた。
「そういうのは後でいいだろ!」
それだけ叫ぶように言うと、彼は扉を開けて廊下へと閉じだしていく。
閉めることも忘れられたその扉を見つめたまま、首を傾げたのは実沙だった。
「どうしたんだろうねぇ?陽くん」
「さあ……?」
彼女の問いに答えることなどできるはずもなく、紀美子は困惑したまま扉を見つめることしかできなかった。
理事長室のある管理棟から高等部のホームルーム棟に繋がる渡り廊下を走り抜ける。
寮に帰ると言うことは、鈴美が向かったのは昇降口だろう。
そう考えて、昇降口に繋がる最短ルートを走った。
その予想は、どうやら正解だったらしい。
昇降口の下駄箱の前に、今まさにそれを開けようとしている鈴美の姿を見つけた。
「鈴美!」
大声で呼びかければ、彼女は下駄箱の扉にかけようとした手を取め、こちらを見る。
「陽一先輩……?」
不思議そうに自分を見る彼女の前に駆け寄ると、慌てたせいで少し上がってしまった息を必死に整えようとした。
「急いでるのに、悪い……」
「いえ……。どうかしましたか?」
整えながらまず謝れば、鈴美は理事長室とはまるで違う雰囲気を帯びた表情で首を振り、尋ねる。
彼女は自分たち以外の人間の前では『以前の自分』を演じているという話だから、驚くことはない。
だから気にすることなく、陽一は真っ直ぐに彼女の目を見返して口を開いた。
「エクリナの祠」
すんなり口から出てきた言葉に、自分でも驚く。
けれど、驚いたのは自分だけではないだろう。
「え?」
「マジック共和国に行ったら、そんな感じの名前の場所ないか、アールに聞いてみてくれ」
「え、ええ。いいですけど、そこが何か?」
予想どおり訝しげな表情を浮かべた鈴美が、戸惑った様子で尋ねる。
その問いに、陽一は視線を足下へと落とした。
「……わからない」
「はあ?」
申し訳なく思いながらそう答えれば、鈴美が思わずと行った様子で声を上げる。
慌てて自身の口を押さえた彼女は、辺りを見回す。
下校時刻がすっかり過ぎているこの時間だ。
他の生徒の姿は全くない。
本当の自分を誰にも目撃されなかったことに安堵の息をつくと、鈴美はこちらへと視線を戻した。
「わからないって……」
「わからないけど、伝えなきゃいけないと思ったんだ」
鈴美の瞳が、ほんの少しだけ細められる。
それが先を促す合図だと判断して、続けた。
「君が休学したいって言い出したときから、何故かその名前が頭に浮かんで離れなくなった。君が何をしに行くのかも知らないけど、言わないと、と……」
本当に、何の前触れもなかった。
ただ、その言葉とマジック共和国という地名が浮かんで、離れなくなった。
「実際、マジック共和国にそんな名前の場所があるかどうかもわからない。少なくとも俺は聞いたことがない」
まだあの国が支配者の国であった頃、エスクールをあの国から解放するために、エスクール駐留部隊ではあったけれど、帝国に入り込んでいろいろと調べた。
けれど、そのときもそんな名前の場所なんて聞くこともなかったし、地図にも乗っていなかった。
「それでも、よくわからないけど、伝えないといけないと思った。それだけなんだ。すまない……」
急に自分が、なんだかとんでもなく見当違いのことを言っているような気がして、思わず鈴美から目を逸らして視線を落とす。
「わ、忘れてくれても……」
「わかりました」
だから思わずそう言ったそのとき、返ってきた返事に驚いて顔を上げた。
その途端、真っ直ぐにこちらを見ている鈴美と目が合う。
「よくわかりませんが、一応聞いてみます」
そう返された言葉が、一瞬理解できなかった。
「あ、ああ。すまない。ありがとう」
「いえ。それでは、失礼します」
ぺこりと頭を下げると、呆然とする陽一を残して、鈴美は素早く昇降口を出ていく。
「先輩」
その様子を暫くの間呆然と見つめていた陽一は、ふいにかけられた声に我に返り、振り返った。
「紀美」
「さっきのって……?」
側までやってきた紀美子が、少し不安そうな表情を浮かべて首を傾げる。
その問いで話を聞かれていたことに気づいて、陽一は困ったように笑った。
「本当に、わからないんだ。ただ……」
「ただ?」
一瞬、続けようかどうか迷った。
確証なんてまるでない。
これは、そう、直感だ。
それを口にしてもいいのかどうか。
迷いを抱えたまま、紀美子を見る。
彼女は、じっと自分を見つめていた。
きっとそれ以上促すつもりはなく、自分が続きを口にするまで待つつもりなのだろう。
それを汲み取って、決めた。
一度目を閉じ、小さく息を吐き出すと、真っ直ぐに彼女の目を見て口を開いた。
「赤美が調べようとしていたことと、何か関係がある気はする……」
「気、ですか?」
「ああ」
不思議そうな顔でこちらを見る紀美子を見て、苦笑する。
わかっている。
理由もなくこんなことを言い出すなんて、今の自分は変な奴としか思えないだろう。
「おかしい、よな……」
「いいえ」
そう思って自嘲気味に呟いた途端、紀美子ははっきりとそれを否定した。
驚いて顔を上げれば、彼女はこちらを見て薄く微笑む。
「先輩はエスクールの王族ですし、もしかしたらマリエス様か誰かのお告げを夢で見たとか、そういうのかもしれません」
彼女の言葉に、陽一は驚いた。
確かに、自分の祖国には、城の地下には精霊が住んでいて、昔ならきっと、そんな可能性も考えた。
けれどこの世界に来てしまってからそんな可能性なんてすっかり忘れていて、彼女に言われるまで思い出しもしなかった。
「でも……」
「ん?」
すっかり考えが回らなくなっている自分に自己嫌悪していると、ふと目の前の紀美子が口を開いた。
顔を上げれば、彼女は口元に右手の人差し指を当て、薄く微笑む。
「姉さんには内緒にしておきましょう?鈴ちゃんの結果も言わずに話したら、また飛び出していってしまうかもしれませんし」
「ああ……。そう、だな……」
確かに、今の赤美なら、自分の話を聞けば、確証がないと知っていても飛び出していってしまうだろう。
姉にまでそんな無茶をしてほしくないのだろう紀美子の気持ちを汲み取り、陽一はしっかりと頷いた。