Chapter1 帝国ダークマジック
4:疑惑
あの文化祭から数週間が過ぎた。
結局3年A組の模擬店はあの騒ぎによってリタイヤせざるを得なくなってしまった。
他にもレミアが切り裂いた邪天使が落下して営業を続けられなくなった模擬店が続出。
そのため順位を決められないということになり、今年の売上賞は何処のクラスにも与えられないということになってしまった。
「でもあの時点ではうちのクラスの勝ち」
「う゛っ!?また負けた……」
そんな会話をしながら普通に日々を過ごす毎日が続いた。
時折アールが襲ってくるが、4人になった彼女たちにもはや邪天使など敵ではない。
タイムの属する棒術士もレミアの属するハンターも直接攻撃を得意とするタイプの職種だ。
だからと言って、彼女たち2人は決して呪文が使えないわけではなく、それぞれ生まれ持った属性を利用して戦況を有利に持っていく。
特にタイムの持つ魔力はルビーと対になる水であったから、事実上ルビーは弱点を克服したということになる。
敵が火の魔力を弱体化させようと辺りを水の場に変化させればタイムの力が活性化するし、その逆を行えば今度はルビーの力が活性化する。
他の2人を狙ってその場の属性を変化させても、反属性ではない彼女たちの力は衰えることはない。
タイムとレミアが合流したおかげで、ルビー1人だった頃よりも戦闘はぐんっと楽になっていた。
「でも、ウィンソウ家ってただの剣士じゃありませんでした?」
「いくらインシングだからって、今時傭兵やってるだけじゃ生活できないからね。まだこっちの方が稼げるから転職しちゃったの」
ハンターとは所謂賞金稼ぎのことだ。
凶悪、危険などと判定を受け、国家で正式に指名手配をすることにした賞金首を捕らえるのを仕事とする者たち。
賞金首は人間だけではなく、魔物まで上がることが多々ある。
最近は人より魔物の方が多いのではないかと言われているほどだ。
そうやって指名手配されるほどのものが相手なのだから、当然仕事上のリスクは高い。
しかし、その分高額な報酬も期待できると言うことで、旅を続ける冒険者などが多くこの仕事に就いている。
その人数があまりに多くなったために専門のギルドまで設立されたほどだ。
近年では、ギルドは賞金の換金だけではなく、ちょっとした何でも屋のような仕事の依頼の仲買も勤めているという。
そんな調子で、授業を抜け出す苦労はあったが、何とか毎日平穏に暮らしていた。
今日、こんなことになるまでは。
魔燐学園理事長室。
塀で仕切られた小、中、高等部の3つの施設の中心にある中央管理棟にある部屋。
4人は理事長――友人である雨石百合から呼び出され、そこにいた。
「どういうことかしら?」
耳に飛び込んでくるのは冷たい言葉。
理事長専用の机の前に立った百合は、その言葉を発したままじっとこちらを見つめている。
「な、何が?」
赤美が無理矢理笑顔を浮かべ、軽い口調で聞き返す。
「……言わなきゃわからないわけ?」
口調がいつもと違う。とにかく、怖い。
ばんっと机を叩く音が室内に響いた。
「どうしてあんたたちは揃いも揃ってあの変な鳥人間が来ると必ず消えるのか、それを聞いてるのよっ!」
「鳥人間って……」
「あながち間違っちゃいないけど、どっちかって言うとカラス……」
「そこ!うるさいっ!」
再び百合が机を、先ほどよりも強い力で叩く。
こそこそと話していた美青と沙織がびくっと肩を震わせた。
「た、たまたまですよ」
「たまだま?たまたまでどうして違う学年のあなたまで一緒にいなくなるのかしら?」
いつもより大分低い声で問いかけながら、百合はぎろりと紀美子を睨みつける。
どうやら自分たちに疑いを持ったのと同時に他学年の様子まで調査していたらしい。
「だから、それもたまたま……」
「毎回のことが『たまたま』で説明できると思わないけど?」
鋭い視線を睨みながら言われた言葉に反論するべき言葉が思いつかなくて、言葉が詰まる。
黙り込んでは肯定するのと同じだとわかっているのに、どうしても言葉が出てこない。
百合の追求から逃げ出す道が、全く見つからないのだ。
「他に何か言うことは?」
机から腕を放し、胸の前で組みながら静かに百合が問いかける。
友人の前にいるというのに、これではまるで生徒指導室に呼び出されているような気分だ。
「なら、そろそろ……」
大きくため息をついて、百合がそう言いかけたときだった。
どおんと、ここからそう遠くない場所で何かが爆発する音が聞こえた。
それと同時に足元が大きく揺れる。
「きゃあっ!?」
「……っと!大丈夫?紀美」
突然のことにバランスを崩して倒れ掛かった紀美子を赤美が何とか支える。
「な、何とか……」
言葉を返しながらも、明らかに別の意味で動揺している妹の顔を見て、百合に聞こえないように小さく舌打ちをした。
タイミングの悪いときに……。
「……またか」
紀美子を自分の横に立たせながら、耳に届いた呟きに視線を動かす。
じっとこちらを見ている百合の言葉の意味など、自分たちには良くわかっている。
軽く紀美子に労わるような声をかけながら美青の方へ視線を向けた。
気づいたのか、それともはじめからこちらを伺っていたのか、彼女が小さく頷いたのが目に入る。
問題はたったひとつ。
この場をどうやって切り抜けるか。
ただ、それだけ……。
不意に、赤美は自分の髪が微かに動いたことに気づいた。
驚いて、それでも百合に気づかれないように視線を動かす。
こんな閉めきった室内で風を呼び込むことができるのは、たった1人しかいない。
そのたった1人の人物――沙織は静かにこちらを見ていた。
手を背中に回し、何かを握って。
動いたら走れ。
何となく、彼女の目がそう言っている気がした。
僅かに細めていた目を伏せて、了承の合図を送る。
それを見た沙織が微かに笑った。
その次の瞬間には、背中に回されていた彼女の手が動いていた。
沙織の手から投げ出された物は、床にぶつかった瞬間ぼんっと音を立て、中から大量の煙を吐き出す。
「な、何……これ……」
一気に室内に充満したそれに飲まれ、百合の姿が彼女たちの視界から消える。
それに安堵して小さく息をついた途端、人が倒れる音が耳に入ってぎょっとした。
「ゆ、百合っ!?」
「大丈夫!ただの眠り玉だから!それより煙吸い込まないで、走ってっ!!」
背後の煙の中から沙織の声が聞こえた。
彼女は指示を出しながら走っているらしく、言葉を発すると共にだんだんと声が遠くなる。
言い終わって10秒もしないうちに、ばたんっと扉が開かれた音がした。
完全に灰色に覆われた視界の中で、その音だけを頼りに走る。
隣にいた紀美子を抱き上げて、障害物をものともせず、赤美は部屋の外へと飛び出した。
扉から離れた途端に背後から慌てて扉を閉める音がする。
さっと辺りを見回せば、既に美青は部屋の外に出てきていて、自分たちが飛び出したのを確認した沙織が急いで扉を閉めたのだということがわかった。
「はぁ……。沙織、ありがとう」
所謂お姫様抱っこ状態だった紀美子を下ろしながら、壁に寄りかかって天井を仰いでいる沙織に礼を告げる。
いいのいいのと言いながら手を沙織と煙の漏れる扉を見比べて、紀美子は不思議そうに首を傾げた。
「沙織先輩、何処でこんな物を?」
「ああ。文化祭のとき、あたしたちインシングに行ってた話したでしょ?そのとき魔物からちょろまかしてきた」
「あたしじゃないんだから」
軽い口調で答えた沙織に呆れたのか、ため息をつきながら赤美が言った。
「いいじゃん。役に立ったんだし」
「代わりに、もう誤魔化しは効かなくなっちゃったけどね」
額に手を当ててため息をつく美青の言葉に、沙織は困ったような顔で笑った。
「やっちゃったものはしょうがないでしょ。とにかく今は……」
「行かなくちゃ、だね」
中等部へ続く廊下を見ていた赤美が、沙織の言葉を引き取って続ける。
「百合への対抗法はそのあとに、ね」
「そっちの方が心配ですけど」
全員がそう思っているのだろう。
紀美子の言葉に誰も何も言うことが出来ないまま、4人はその場を立ち去った。
例によって例の如く邪天使の群れを引き連れて中等部の校庭に現れたアールは、なかなか姿を現さない4人に痺れを切らして叫んでいた。
「出てこないのかっ!ミルザの子孫っ!!」
彼女たちがここにいると決めつけた彼女には――実際それで当たっているのだが――別の場所を探しに行くということが頭にないらしい。
「もう一度だけ言うぞっ!ミルザの子孫どもっ!!」
「うっるさいっ!この黒鳥ブスっ!!」
大きく息を吸い込んで、これでもかというほど声を張り上げた途端にいきなり怒鳴り声が返ってきた。
突然返ってきた思いも寄らぬ罵声に、アールは一瞬唖然とする。
「こ、黒鳥ブスだとっ!!?」
漸く罵声を浴びせられたことを理解して、声を上げながらばっと後ろを振り返った。
いつの間に現れたのか、そこには待ち望んだ4人がそれぞれ武器を手にして立っていた。
「姉さん、言い過ぎ……」
「機嫌悪いねぇ」
「キレやすいのが短所よね、ルビーって」
「ちょっと後ろ、うるさい」
仲間たちの呆れた言葉を耳にして、振り返ったルビーはぎろりと彼女たちを睨む。
「お、遅かったではないか。てっきり逃げたかと思ったぞ」
正面からでも見えてしまったその表情に引き攣る顔を無理矢理抑え、わざと余裕を感じさせる口調でアールが言った。
それに引っかかったのか、それともわかっていて乗ったのか。
百合に捕まったことで不機嫌最高潮のルビーは、そのままの表情でアールを睨んだ。
「誰が逃げるってのよ。あんたたちじゃあるまいし」
「な、何だと……!!?」
「あんたたち腰抜けと一緒にすんなって言ってんのっ!!」
「だ、誰が腰抜けだっ!!」
真っ赤になってアールが怒る。
「腰抜けでしょうが!!自分では戦わずに部下にばっかり戦わせて。あ~、邪天使が可哀相だわぁ~」
「……機嫌悪くなると相手挑発する癖があったっけ……」
普段喧嘩を売られたときの親友の姿を思い出して、呆れたタイムがため息をつく。
「乗っちゃう相手も相手ですけど……」
セレスがそれに苦笑して、低レベルな言い争いをしている2人に聞こえないように言った。
「そこまで言うなら、私が直々に相手をしてやる!」
「ああ、来なさいよっ!返り討ちにしてくれるわっ!」
短剣を構えて威勢良くルビーが叫ぶ。
彼女の好戦的な性格に、後ろの3人は呆れるしかなかった。
「仕方ない。あたしたちもやりますか」
「まあ、この場合はそうなるし」
「私は一応後方支援に徹します」
姉の方を見て、ため息をつきながらセレスが杖を構える。
「よろしく。行くよっ!」
「覚悟しろっ!マジックシーフっ!!」
タイムとレミアが動いたのとアールが叫んだのはほぼ同時だった。
「あー……。何か体がべとついてる……」
既にお約束の場所となった校舎裏で、沙織が嫌な顔をして体を摩りながら呟く。
「あんたと赤美の武器、刃物だからねぇ」
「そんなに嫌かなぁ?これ」
「姉さんがヘンに慣れちゃってるだけでしょ」
不思議そうに言う赤美に、紀美子が呆れて言葉を返した。
あの後、彼女たちは肉弾戦であっさりと勝利を手にした。
邪天使はレミアに切り刻まれ、タイムに叩きのめされ、挙句の果てにセレスの呪文が直撃する始末。
ルビーと戦っていたアールは怪我を負ったものの、命からがらインシングへ逃げ帰っていった。
「それにしても赤美。あんたもっと考えてよ。そのうち周りが火事になる」
美青が呆れたという感情を少しも隠すことなく首を傾げている赤美を睨んだ。
それほど機嫌の悪い彼女の戦い方は凄まじかったのだ。
火の呪文を見境もなく使う。
そうかと思えばそれに突っ込み、その向こうにいるアールに斬りかかる。
おかげで彼女は少し火傷をしていた。
それが制服の下に隠れる場所であったのは、彼女たちにとって不幸中の幸いと言ったところか。
「本当。この間の怪我だってようやく完治したところなんだから、これ以上手間かけさせないでよ」
「あはははは。ごめん~」
笑いながら謝るその表情には、反省の色などひとつも見えない。
それを見て紀美子と美青が大きくため息をつき、側で沙織が苦笑していた。
「それよりさ」
突然口調を変えたかと思うと、真剣な表情で赤美が口を開いた。
「百合のこと、なんだけど」
彼女の口から出た名前に3人が表情を変える。
先ほど眠らせてきた友人。
彼女にこのことがばれかかっている以上、このままにはしておけない。
彼女は理事長なのだから、下手をしたらこの学園にいられなくなる。
国外に姉兄がいる美青はともかく、このままでは寮暮らしをしている赤美、紀美子、沙織の3人は住む場所がなくなってしまうのだ。
それだけは避けなければならない。
少なくとも、ダークマジックという国が存在しているうちは。
「……実はさ」
そんなことを考えていると、不意に沙織が口を開いた。
「最近百合の周りにいると違和感があるんだよね」
「違和感?」
「なーんか近寄りたくないような、そんな感じの」
「それって、反属性の拒否反応じゃありませんか?」
何気ない紀美子の一言に、3人ははっと目を見開いて彼女を見る。
「ってことは、まさかあの子がっ!?」
「グランドマスターのレインっ!?」
思わず大声を上げてしまったのは、この場合仕方がないだろう。
「でも百合のお爺さん、この学校の理事長のはずでしょ?」
「だけど!そうじゃないと沙織の違和感の説明が出来ないし……」
信じられない答えに彼女たちの頭は混乱し、答えの出ない問いをぶつけ合う。
そんな中、黙り込んでいた美青が、不意に小さく言葉を発した。
「……可能性、高いかもしれない」
呟きに近かったその言葉を辛うじて聞き取り、3人は驚いて彼女を見る。
「どういう、ことですか?」
「もし百合がそうなら、魔力を感じ始めたなら、あの子だけあたしたちのこと感づいたことにも納得できる」
確かに、彼女が魔力を持っているのなら、彼女だけが自分たちのことに気づいたことにも納得がいく。
「でも、だったら何で出てこないの!」
ぐっと拳を握って沙織が叫んだ。
「仲間なら、どうして名乗り出ないのよ!」
「……すぐに覚醒するとは限らない」
「……え?」
赤美の言葉に、沙織は呆然とした表情で彼女へ視線を移した。
「あたし、覚醒前に夢を見た。赤い神殿の夢。“魔法の水晶”が出てきた夢」
「それなら私も」
「あたしも」
「神殿は緑だったけどね」
「あたしがそれを見たのは、夏休みだった」
「……どう言うこと?姉さん」
突然言われた言葉の意味がわからなくて、紀美子が訝しげに聞き返す。
「あたしがあの夢を見たのは夏休みの半ば。だけど、覚醒したのは9月の始め」
「それって……」
「2週間かかってんのよ。あたしが夢を見てから覚醒するまで」
3人が揃って息を呑んだ。
彼女たち自身はその“夢”を見てから覚醒するまで1週間もかかっていない。
しかし、赤美は2週間もの時間をかけている。
それは即ち、百合も既に“夢”は見ているけれど、覚醒までは至っていないという可能性があることを示していた。
本当にそうなら、今回のことは納得できるのだ。
魔法の水晶を手にする夢。
それを見てしまえば魔力は目覚め始めるのだから。
たとえ、“時の封印”がかかっていたとしても。
「……仕掛けるか」
突然赤美が言った。
「しかける?何を?」
「決まってんでしょ。百合を覚醒させる」
「ええっ!?」
きっぱりと返された答えに、紀美子は思わず叫んでしまう。
「だ、だって!まだ本当にそうなのかもわからないのに、どうやってっ!!」
「罠をしかけりゃいいのよ」
「罠?」
そう聞き返したのは、先ほどからほとんど口を開かない美青だった。
「そ、罠」
そんな彼女に視線を移すと、微かに得意そうな笑みを浮かべて答える。
「しかけるって言ったって、どうする気?」
それを目にした沙織が、訝しげな表情で問いかける。
「まあ、とりあえずそれは任せてくれないかな?」
にっこりと、今度ははっきりと分かる笑みを浮かべて問い返す。
そんな赤美を見て、美青はふうと大きなため息をついた。
「何か考えがあるんだ」
「もちろん。いくらあたしでも、考えなしに危険な『賭け』なんかしないよ」
「わかった」
「美青っ!?」
「美青先輩っ!?」
あっさりと了承してしまった美青に驚き、沙織と紀美子が声を上げて彼女を見る。
「任せるよ。そういう顔するときのあんた、結構慎重で本気だしね」
「さっすが親友。わかってるぅ~♪」
「あんたの無茶苦茶に一番つき合わされてるからね」
「あははは。ってことで、いい?紀美も沙織も」
問いかける赤美は笑みを浮かべてはいたが、その瞳と口調はいつになく真剣そのもので。
沙織も、妹である紀美子さえ、彼女の真剣な表情など滅多に見ることはなかったから、その代わりように一瞬目を瞠った。
彼女のこんな表情は、ほとんど見たことがない。
美青だけは別だったらしく、彼女は呆れたような表情で苦笑しているだけだった。
「……わかった。姉さんに任せる」
「他にこのピンチを切り抜ける手、ないみたいだしね」
「ありがと♪」
話は決まった。
あとは実行あるのみだ。
「で?その罠はいつ決行?」
「次のアールが来るとき。それまでは、誤魔化しきる」
はっきりと赤美が宣言する。
3人は苦笑しながらも、その言葉にしっかりと頷いた。
実行の日は意外に早く訪れた。
ルビーにあっさり敗れたのがよほど悔しかったらしく、アールは翌日再び学園に現れたのだ。
「任せるからね」
「わかってる。そっちはよろしく」
校庭に視線が集まり始めるなり、赤美、美青、沙織の3人は教室を飛び出した。
百合がそれに気づき、こちらを見ていることには当然気づいていた。
しかし、ここでこの作戦を止めることはできない。
美青と沙織は紀美子と合流してアールを迎え撃つべく階段を駆け下りていった。
赤美だけがたった1人で上の階に駆け上がる。
1階分上りきったところで足を止めた。
この階には特別教室しかないはずだ。
目を閉じて耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ませる。
人のいる気配は、ない。
「よし……」
目をつけた教室に入って、例のロッドを振りかざした。
“時の封印”を解いて、もう一度だけ誰もいないことを確認するとその場に片膝をついてしゃがみこむ。
確か、この教室だったはず。
音を立てないように手を当てて床を探っていった。
ふと、手に何かを感じて動きを止める。
風だ。
微かな風が床下から吹いてくる。
「ここだ」
床にはめ込まれた、何故か分厚い木の板で補強されたプラスチックタイルを、その周りの僅かな隙間に指を入れて器用に外す。
壊さないようにタイルを脇に置いて視線を戻す。
本来床があるはずのそこにはコンクリートも木の板もなく、ぽっかりと穴が開いていた。
この教室は何年も前に空き教室になり、ほとんど使われたことはない。
そのためか、ちょっとした痛みなどはあまり気づかれることもなく、まともな修理もされないまま放っておかれる。
それを知っていたからこそ、ルビーはこの教室に入り込んだのだ。
「ビーンゴ♪」
現れた天井裏への小さな入り口を見て小さく笑う。
念のためにもう一度辺りの気配を伺うと、彼女はそこに体を滑り込ませた。
さすがに穴の中は埃だらけだが、そんなことは気にしていられない。
床に耳を近づけながら、慎重に目的の場所まで進む。
「ここだ……」
目を細めて動きを止めると、短剣を取り出した。
その切っ先を床に向け、床が壊れない程度に力を入れて床を叩く。
切っ先は見事に一度で床を突き抜け、小さな穴を開けることに成功する。
そのあまりの簡単さに建物の老朽化が心配になったが、そんなことを考えている場合ではないと頭を振ると、たった今出来た小さな覗き穴から下を覗いた。
思った通り、そこは自分のクラス――3年A組の百合の席の真上だった。
クラスメイトが窓辺に寄って外の様子を見ているというのに、百合だけは先ほど自分たちが出て行った扉をずっと凝視している。
「悪いけど、ちょっと1人になってもらうよ、百合」
そう呟きながらルビーが取り出したのは、短剣より短い刃物――ナイフだった。
インシングでよく飛び道具として扱われているタイプのものだ。
用意したナイフを近くに並べると、もう一度短剣を握って先ほどよりも強い力で床を叩いた。
だんだんその部分だけが床から――天井からはがれていく。
はがれた板を落とさないように片手でしっかりと支え、ナイフを並べたのとは逆方向にずらす。
その途端、先ほどよりもずっと強い光が天井裏に入ってくる。
「よし……」
短剣を収め、ナイフをいくつか取り出した。
さっと下の様子を確かめる。
百合の近くの席の生徒はみんな窓辺に行ってしまっていて、誰もいない。
「これなら問題なし、と」
ふっと笑ってナイフを持った手を振り上げた。
しっかりと狙いを定め、迷うことなく振り下ろす。
タンタンタンとリズミカルな音を立てて、彼女の手から離れたナイフが床に突き刺さった。
「……えっ!?」
「きゃああああっ!!!?」
焦ったような声が聞こえて、百合が席から立ち上がったのと、誰かが叫んだのはほぼ同時。
「ナ、ナイフっ!?」
「い、いるんだっ!天井裏にあの鳥人間がっ!?」
天井に視線を向けられるのを感じ取って、一瞬早くルビーは頭を引っ込める。
この状況ならば、普通はそう考えるだろう。
「お、おいっ!落ち着けよ」
新藤の声が耳に入った。
何とか友人たちを落ち着けようとしているようだが、声を聞いている限り、当の本人が一番混乱しているように思える。
これではうまくいくはずがない。
「ざまぁみろ」
聞こえないことはわかっていたけれど、ぽつりと口に出して言ってやった。
「し、静かにっ!出ろ!みんな、教室から避難するんだっ!!」
その時間の担当だった教師が叫ぶ。
その言葉を聞いた途端、全員が出入り口に向かって一斉に走り出した。
だが、百合だけはその場を動かなかった。
床に刺さったナイフを見つめて、呆然としていた。
友人たちが、教師さえもが逃げ出してしまった後も、たった1人でその場に立ち尽くしていた。
そんな彼女を見て、ルビーは微かに笑みを浮かべた。
「……大した度胸だねぇ、あんた」
誰もいなくなった教室に響いた声にはっと顔を上げたのが見える。
「誰!?何処にいるのっ!?」
「ここだよ」
完全に板をはずして、ルビーは天井裏から飛び降りた。
自慢の白い服は完全に埃にまみれていたが、そんなことを気にしている場合ではない。
髪の埃だけ軽く払うと、ルビーは真っ直ぐに百合を見た。
「あ、あんた。今外にいる人たちの……」
「仲間だよ。あの女の子たちのね」
そう言って、先ほどこっそり浮かべたのとは笑みを見せる。
「一体どういうつもり!あんたは外で戦ってるはずじゃ……!?」
「推測で物を考えるのはよくないよ。それじゃこれから先、どうなっても知らないから」
「何ですって?」
「例えば、あんたの友達」
ルビーの言葉に、微かに百合が表情を変える。
「あたしって盗賊でさ。よくこの辺に潜んでるんだけど、迷惑なんだよね。アース人と一緒にされるの」
「一緒にされる……?」
「わかってない?ずっと上から見てたんだけど。昨日、あんた友達追い詰めてたでしょ?あたしたちじゃないかって」
ほんの少しだけトーンを落として尋ねると、百合は再び表情を変えた。
「見ればわかると思うけど、あたしたちの髪の色これだし、瞳の色もこうだし。第一。髪の長さが違う子だっていたじゃない。一緒にしないでくれる?」
口調に怒りを滲ませて言ってやると、百合は一瞬目を見開いた。
ほんの少しの間、沈黙が辺りを包む。
「よく言うわ……」
暫くして漸く呟いたかと思うと、目を細めて問い返してきた。
「そんなに顔が似てて、声まで同じで、どうして間違えろって言うの?」
淡々と告げる声は、これでもかというほど自信に満ち溢れていて。
「間違えようがないでしょ?赤美」
きっぱり言われた言葉に、ルビーはごくりと息を呑んだ。
違ったら、後がない。
「だったら試してみない?」
「……試す?」
「あんたがこれを読めば、全部はっきりすると思うけど」
そう言ってルビーが見せたのは1枚の紙。
「読めばわかるって、そのメモを?」
「声に出してじゃないと意味ないけどね。……やってみない?」
これは賭け。
百合がこの話に乗るかどうかに、全てがかかっている。
「わかった。貸して」
そう言って、百合はルビーの手からメモを奪い取った。
……よし。
あっさりメモを取った百合に僅かな疑問を抱きながらも、表情に出さないようにして心の中でガッツポーズを取った。
「我、インシングの勇者の血を受け継ぐ者」
静かに百合がメモを読み始める。
「今ここに、彼にかかりし“時の封印”を解かん」
その時だった。
突然百合の側に茶色い水晶球が現れた。
同時にそれは光を放ち、百合の体を包んでいく。
「な、何これっ!?」
光の中から驚く百合の声が聞こえた。
ルビーの口の端が持ち上がった。
おそらくそれは、無意識のうちに浮かべた安堵の笑みだ。
自分たちの考えが正しかったことに対する安堵の。
あの水晶こそ地の“魔法の水晶”。
そして、それこそ同じ祖先の血を引く者の証であるから。
突然校舎から注いだ光に、校庭にいた者たちは一瞬動きを止めた。
「な、何だ?あの光はっ!?」
事情を知らないアールが驚き、叫ぶ。
「まさか、あれ……!」
「予想が当たった、ってとこか」
光を見て驚いたようにレミアが叫び、ため息をつきつつタイムが笑う。
「ええいっ!何だか知らんが、私には関係ないっ!!」
ばっとアールが手を振り上げる。
「これ以上面倒なことになる前に、お前たちを葬り去ってやるっ!!」
「できるもんならやってみれば!」
襲ってくる邪天使を剣で薙ぎ払いながらレミアが叫び返す。
「言われなくてもっ!!」
そう叫んで、アールは腕を振り上げた。
「出でよっ!!ラージャっ!!」
言葉と同時に空中に巨大な“ゲート”が開く。
開いたその穴から、アールの言葉に引き寄せられるかのように何かが姿を現した。
「な、何っ!あれっ!!」
大地に降り立ったそれを見てタイムが叫ぶ。
現れたのは巨大な邪天使。
校舎分の大きさはあると思われる、文字通りの巨人。
「これこそ我が研究の傑作っ!」
「何が傑作よ。邪道じゃない……」
ぎゅっと杖を握り締めてセレスが呟く。
その目はまっすぐに現れた巨大な邪天使を睨んでいた。
「さあ、やってしまえっ!!」
勝ち誇った表情でアールが叫ぶ。
その言葉を受けてラージャと呼ばれた巨大な邪天使が動き出そうと足を上げた瞬間だった。
「我、ここに大地の盟約に従い汝を招かん。大地より生まれし“友”よ。巨人となりて、我が道塞ぎし者を打ち砕かん!」
突然聞こえた聞き慣れない呪文。
それに応えるかのように地響きが起こり、地面に巨大な円型の文様が現れる。
それは紛れもなく、光り輝く魔方陣。
その魔方陣の中に現れたものを見て、アールは大きく目を見開いた。
「な、何だ……!?」
魔方陣の中、地面から自ら起き上がるように現れたのは巨大な土人形。
その大きさはラージャにも負けず劣らない。
「行けっ!アースゴーレムっ!!」
再び聞き慣れない声が響いた。
同時に現れた巨大な土人形がラージャに襲い掛かる。
思わぬことに怯んでいたラージャは、それを避けることが出来なかった。
両腕を背中に回され、身動きが出来なくなったラージャがもがく。
それでも土人形は離そうとはせず、そのまま土の中に戻り始めた。
「ふ、振り払えっ!ラージャっ!そんなもの、振り払ってしまえっ!!」
「無駄よ」
慌てて発した命令は、三度響いた声によってあっさりと打ち消された。
その言葉で漸くそれがどこから聞こえてくるのか気づき、タイム、セレス、レミアの3人は勢いよくそちらを振り返る。
そこに立っていたのは、胸の前で両腕を組んだ茶色い髪の少女。
「アスゴは岩になれる。岩に包まれて、どうやって振りほどくつもりかしら?」
「な……っ!?貴様、何者だっ!!」
突然の出来事に激昂するアールに、少女は冷たい笑みを返した。
「私の名はミスリル=レイン。ミルザの血を引くグランドマスター」
少女から発せられた言葉を聞いてアールが顔色を変える。
「ってわけだから、諦めた方がいいかもよ?」
また別の方向から声がした。
視線を動かして見れば、屋上の柵の上に見覚えのある少女が1人座っている。
「姉さんっ!」
その姿を確認した途端セレスが叫んだ。
気づいた少女――ルビーが彼女に笑いかける。
「じゃあ、やっぱりあんた……」
「話は後でしょ?今はこいつらを片付けるのが先」
レミアの言葉を遮って、茶色い髪の少女は鞭を取り出した。
「というわけで相手してもらいましょうか。ここで暴れた料金は高いわよ?」
「う……」
少女が発する異様なまでの殺気に、思わずアールは怯んでしまった。
すでに土人形――ゴーレムはラージャを連れて魔法陣の中に消え去っていた。
彼女にもう、手段はない。
「く、くそっ!覚えていろっ!次こそは……」
「それ、あたしの時から数えて何度目よ」
「うるさいっ!!次こそ、次こそは……!」
それだけ言うと、アールは邪天使に撤退の指示を出し始めた。
邪天使が次々と開いたゲートの中へ飛び込んでいく。
「覚えていろ!!」
最後に吐き捨てるように言って、アール自身も“ゲート”の中に姿を消した。