Chapter7 吸血鬼
20:祠の主
深い森の中を、何かが通り抜ける音がする。
迷うことなく進むそれは、真っ直ぐに山と向かって歩いていく。
目の前に広がる道はずっと暗い緑で、それが永遠に続くかのようにも錯覚できた。
けれど、物事は常に有限ということを、彼女たちは知っている。
だから、やがて訪れるそれを、疑うこともなかった。
それほど長く立たないうちに、目の前に光が差し込んでくる。
そこを目指して歩いていると、やがて森が開けた。
辺りを見回すけれども、森が広がっているのは自分たちより後ろばかりだ。
「森を抜けたようですわね」
「ああ」
リーナの声に、アールは頷く。
彼女は既に背後には目を向けておらず、その目は目の前に広がる別のものを見つめていた。
「ここが『森の奥地』か」
「ええ、間違いないわね」
アールの言葉に頷いたのは、同じく前を見つめていたベリーだった。
その紫紺の瞳が真っ直ぐに見つめているのは、目の前に聳える高い崖。
高層ビルをも思わせるような高さのその岩肌を、ベリーはじっと見つめていた。
「どうして言い切れますの?」
「見て分からない?」
リーナの問いに、ベリーは視線を地面へと落とす。
リーナの目も、自然と彼女の視線を追った。
「この辺の草、他より薄いわ。この壁にも、削れたような後がある」
言われてみれば、人が立ち入ることのないこの場所の草は伸び放題であるのに、何故かこの周囲だけが草が伸びていなかった。
そして目の前の壁。
その地面と接する部分に擦れたような跡があった。
「たぶん、そう遠くない過去に何かあったのよ。周囲に荒れた様子がないから、戦闘じゃない。だとすると……」
「この壁が動いた、か?」
「おそらくね」
アールの問いにベリーは頷く。
おそらく、自分たちの目的地はこの向こうだ。
それは周囲の様子から、そして以前ミスリルから聞いた話からも判断できる。
「問題は、どうやって動いたか、なんだけれど」
ミスリルは、『竜の祠』の開き方までは教えてくれなかった。
だから、ベリーもその方法は知らない。
あの古文書に書いてあったヒントを基に考えなければならなかった。
「……ここ」
ふと、リーナの声が耳に入り、ベリーは視線を壁へと戻す。
リーナはいつの間にか壁のすぐ傍に行き、岩肌をじっと見つめていた。
「真っ直ぐに線が入ってますわね。ここから開いたのではないでしょうか」
「だとすると、ヒントはこれか?」
リーナの言葉を受けたアールが、何かを見つけたらしい。
見れば、アールが触れた場所のすぐそばに小さな穴が開いていた。
そのすぐ上に何か文字でも刻まれているのだろうか、自然にできたと考えるには不自然なへこみがあった。
「みたいですわ。ベリー様」
リーナが振り返ってベリーを呼ぶ。
その声に、ベリーは2人の傍へと歩み寄った。
「これ、皆様の暗号でしょう?」
示されたそのへこみを、じっと見つめる。
確かにそれは、自分たちの一族に伝わるあの暗号文字だった。
「ええ、そうだわ。よく分かったわね」
「ミルザの聖窟で見たものと似ていると思いましたので」
にこりと微笑んだリーナが、ベリーに場所を譲る。
その場所に立つと、ベリーはじっとその文字を見つめた。
「何て書いてあるんだ?」
アールの問いに、少し考えてから口を開く。
「『穴に、汝らの魔力の源を入れよ』」
「魔力の源?」
「魔力の源なんて、一体何のこと……ってベリー様?」
首を傾げる2人には構うことなく、ベリーは魔法の水晶を取り出した。
指輪に変形し、右手の薬指に収まっていたそれが、元通りの水晶球に戻る。
それを、ベリーは迷うことなく刻まれた文字の下の穴に嵌め込んだ。
その瞬間、その穴から光が溢れた。
その光は先ほどリーナが見つけた線を上下に走り抜ける。
一瞬遅れて辺りに地響きが起こった。
「これは……っ!?」
「壁が……」
光が走った部分から、岩壁が左右に分かれる。
地響きとともに横に走ったそれは、暫くすると止まり、大地も鎮まった。
壁が開いたその向こうには、広大な空間があった。
その空間の中央に、何かがある。
それが何かを認識する前に、宙に浮いていた水晶球がベリーの下に戻ってきた。
手を差し出すと、それが当然と言わんばかりに、自然にその中へ収まる。
「やっぱりこれのことね」
自分の手に戻ったそれを見て、ベリーは小さく息を吐き出した。
「そうか。魔法の水晶は、魔力を生み出すことができるんだったな」
「ええ。だから私たちは、魔力の一切ないアースで呪文を使えるわけだから」
だからこれは、自分たちの魔力の源と言っても差し支えないものだった。
古文書にも『珠を捧げん』という記述があったから、すぐに思いつくことができた。
「こんな言葉を残したということは、ミルザもそれを知っていたのね」
そこに『竜の宝珠』を封印したのは、確かミルザだったという話だ。
ならば、この暗号を残したのもミルザなのだろう。
だからきっと、ミルザもこのことを知っていたのだ。
そんなことを考えながら、ベリーは魔法の水晶を握る。
その瞬間、それは光に変化し、彼女の右の薬指に纏わりつく。
再び指輪に変化したそれを確認すると、彼女は一度目を閉じた。
「行きましょう」
再び目を開けると、そう告げて祠の中へ向かって歩き出す。
アールとリーナは彼女のその姿を見て頷くと、黙ってついて行った。
『やはり来たか』
祠と呼ぶにはあまりにも広いそこに足を踏み入れたその瞬間、耳に声が届いた。
ベリーは聞き慣れた、アールとリーナは馴染みのないそれに、足を止め、はっと顔を上げる。
「あれは……」
祠――いや、洞窟の中心にある像の前に、ぼんやりと何かが浮かび上がる。
人の姿をしたそれを見て、ベリーは驚き、目を丸くした。
「……ウィズダム?」
名を口にすれば、はっきりと姿を現したその人物はゆっくりと目を開けた。
茶色の瞳がこちらを見たかと思うと、その口が薄く弧を描く。
「あなた、どうしてここに?」
『ここは我が意識の住処と呼べるべき場所。私がいても不思議ではあるまい』
「あなたは、ミスリルのブローチの中に宿っているのだと思っていたわ」
彼が宿っている宝珠は、今はミスリルが胸に着けているブローチと一体化していると聞いていたから、てっきりそうだと思っていた。
『確かにそうだな。だが、いつもそこにいる必要はあるまい?』
それを肯定した上で、ウィズダムは笑みを浮かべたままそう尋ねる。
『ミスリルがあれを手放さぬ限り、私はいつでもその声に答えることができる。私がどこにいるかは問題ではない』
それは、あの宝珠が通信機の役割を果たしているということなのか。
ベリーが深く考えようとすると、それを阻止するかのようにウィズダムは口を開いた。
『それよりも、お前たちはミルザがここに隠したもうひとつを探しに来たのだろう?』
その言葉に、ベリーはそれまで考えていたことを頭から忘れ去り、顔を上げる。
「知っているの?」
『私はずっとここにいたのだぞ?』
「そういえばそうだったわね」
意地悪く微笑するウィズダムを、思わず睨みつけてしまったのは仕方のないことだろう。
紫紺の瞳で彼を睨みつけたまま、ベリーは尋ねる。
「それで、場所は教えてくれるのかしら」
『自分で探すといい。私を眠らせていたこれが持っている』
彼が示したのは傍にある竜の像だった。
ミスリルの話から考えると、確かこれは、彼が封印されていたあの宝珠が納められていた像のはずだ。
「この像が……?」
『そうだ。何がそうかは、他の“鍵”が教えるだろう。見つけたら、次は魔法王国へ向かうといい』
「え?」
思いもしなかったその言葉に、ベリーは驚き、視線をウィズダムへ戻す。
次の鍵のありかは、いつもミルザの幻影が教えてくれた。
だからてっきり、鍵を手にすればいつものように彼が現れて、次の行き先へのヒントを教えてくれると思っていた。
それなのに、それを口にしたのは彼ではなく、今目の前にいる、この祠の主だった。
何故彼が。
ベリーのその疑問に答えるかのように、目の前の祠の主は口を開く。
『ミルザの幻影は、ミスリルがここを訪れた際に現れた。ミスリルもエスクールの王子も気づいていなかったようだがな』
無理もない、と彼は続ける。
ミスリルとリーフがここに来たとき、ミスリルが宝珠を手にしようとしたそのとき、例の双子の襲撃があり、そのまま戦闘に突入したらしい。
だから、あんな儚い幻影が出てきても、気づく余裕などなかった、ということか。
けれど、ウィズダムは見ていた。
自分と共に、この地に存在した物の姿を、はっきりと。
『あれは、次は魔法ギルドの発祥地と言っていた』
そのとき聞いたのだろう言葉を、ウィズダムははっきりと口にする。
「魔法ギルドの発祥の地……」
「確かにスターシアですわ、それは」
その言葉を聞いたアールとリーナが、肯定の言葉を口にしながら頷いた。
スターシアは、マジック共和国とはあまり関わらずに発展してきた魔法王国だ。
マジック共和国では魔法は城を中心に研究されてきたけれど、スターシアはこれを国中で行っていた。
だからマジック共和国よりも早く魔法ギルドが発足し、独自の研究を続けてきたと言われている。
最も、ずいぶん昔のマジック共和国の侵攻作戦のときに文化が交じり合い、今ではそう言った独自性を保っているのは、彼女たちがつい先日まで滞在していたジパング王朝国家くらいになってしまっていたけれど。
一瞬だけ義姉妹を見たベリーは、すぐに視線を戻して睨むようにウィズダムを見つめる。
「ずいぶん気前がいいのね」
『……気まぐれだ。あまり我が寝床に、主以外の人間を招き入れたくないのでな』
声をかけた途端、ウィズダムの表情が不機嫌そうに歪む。
『せいぜいがんばるといい。我が主に負担をかけない程度にな』
彼はそのまま背を向けると、空気に溶け込むように消えてしまう。
完全にその姿が消えてしまうと、ベリーはふうっとため息を吐き出した。
「相変わらずミスリル第一主義なんだから……」
先日、ウィズダムの態度を見て、ペリドットが『ミスコン』と呼んでしまおうかなどと言っていたことを思い出す。
いろいろと紛らわしいのでやめろと言っていたのは、ルビーとレミアだっただろうか。
そんなことを思い出しながら、ウィズダムが示した像へと近づいた。
一見、何もないように見えるそれ。
ぱっくりと開いた口には、何かが置かれていたような窪みがあった。
おそらく、ここにミスリルの手にした宝珠が置かれていた場所なのだろう。
その場所に、手で触れてみる。
その途端、がこんという音がした。
驚いて手を離した途端、それまでぴくりとも動かなかった首が僅かに揺れる。
「これ、首が動く……?」
呟いてからまさかと思い、けれど思いついた可能性を否定しきることもできなかった。
顔を両手で掴んで、左右に揺らせてみる。
右側に向かって動かしたとき、再びがこんという音が聞こえ、それが外れた。
「まあ、外れましたわ」
リーナの驚く声が聞こえた。
それに答えることなく、外れた首の付け根を覗き込む。
そこには口の中と同じような窪みが作られ、そこに大きめのビー玉のような珠が収められていた。
その珠に手を伸ばした途端、ベリーの胸が光り出す。
はっと視線を落として首から提げていたチェーンを引っ張り出せば、首から提げていたあの剣のペンダントが淡く光を放っていた。
それに呼応するように、像の中の珠も淡く光り始める。
「どうやらこの珠がそうみたいね」
淡く光り続けるそれを、手に取る。
透き通ったそれは、よく見ると木の幹のような色をしていた。
その珠を、手で包み、強く握り締めた。
「これで、4つ。漸く、4つ……」
マジック共和国の腕輪、トランストンの剣の形のペンダント、ジパングの勾玉、そしてゴルキドの珠。
これで漸く4つ目の鍵が手に入った。
「あといくつあるんですの?」
「さあ?いくつかしら」
リーナの問いに、ベリーは目を閉じて答える。
「わからないのですか?」
「ええ。精霊には、全ての国を回れと言われているけれど」
「全ての……」
振り返ってそう告げれば、リーナは困ったような顔でため息をついた。
ベリーも、それに同意するようにため息を吐き出す。
ダークネスは、鍵の数について何も教えてくれなかった。
だからあとどれほどの国を回ればいいのか、人が住んでいないはずの場所にまで行くべきなのかすらもわからない。
それでも、今は先祖の幻影が示す道を歩いていくしかなかった。
「……なあ、ベリー。まさかと思っていたことがあるんだが」
「何?」
ふと、口を開いたアールの言葉に、ベリーは彼女を見て尋ねる。
アールは暫く言いにくそうに視線を彷徨わせてから、重そうに口を開いた。
「精霊は、全ての国を回れと言ったと、今お前は言ったな?」
「ええ」
確かにダークネスにはそう言われた。
だからアールにもリーナにも、それをそのまま伝えた。
それに何か問題でもあるのかと聞き返そうとしたそのときだった。
「ひとつ、行けない国がある」
「え?」
予想していなかったその言葉に、ベリーは思わず言葉を飲み込む。
「現在は存在しない国だ。まだ我が国が帝国だった頃に、大陸ごと沈没した」
アールが、搾り出すように続けたその言葉を耳にした瞬間、リーナが小さく声を上げた。
「シルヴァン帝国……!?」
「そうだ」
その言葉に、ベリーもはっと息を呑む。
シルヴァン帝国。
それはまだマジック共和国がダークマジックという名前であり、アールとリーナが自分たちの敵であった頃に滅亡した国の名前だ。
その国は、ただ滅んだだけではない。
滅亡のときに国の中で何かが起こって、大陸全体が海の底に沈んでしまった。
ベリーが覚醒したときにはもう滅んでいた国だったからすっかり失念していたけれど、ほんの1年ほど前までは確かに存在した国なのだ。
「あの国があった場所は地殻変動で浅瀬ができていて、船では近づけない。行けたとしても、こちらの世界には海底に沈んだ土地を調べる技術は存在しない。呪文も、少なくとも私は知らない」
アールが淡々と、自身の知る真実を語る。
その紫玉の瞳が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「あそこは、どうするつもりだ?」
「それは……」
ベリーはあの国の存在を失念していた。
だから当然、考えているはずもなかった。
それを、今聞かれたとしても答えられるはずがない。
目を閉じて、少しの間思案する。
けれど、何度考えても、辿り着く答えはひとつしかなかった。
「……後回しにするわ」
暫くして、ベリーははっきりとそう告げた。
その言葉にアールは目を細めて彼女を見る。
「今は、先に回収できるものを回収する。できないもののことは、その後考えるわ」
それ以外に、答えようがなかった。
浅瀬を越える方法ならある。
一度アースに戻り、ペリドットに頼んで、変形したオーブに乗せてもらって行けばいい。
けれど、海底を探索する方法は思いつかなかった。
だから、今はそうとしか答えられなかったのだ。
問題を先送りにしていることはわかっているけれど、今はミルザの導くとおりに進むしかない。
「……わかった」
アールが静かに答える。
その表情は、ベリーの答えに納得していないように見えた。
けれど、それ以上彼女は何も言わなかった。
それ以上突っ込んでも意味はないと悟っていたのかもしれない。
ほんの少しだけもやもやとした気持ちを抱えたまま、ベリーは顔を上げた。
どちらにしても、ここで立ち止まっているわけには行かないのだ。
ミスリルから提示されたタイムリミットは、刻一刻と迫っているのだから。
3人の人間が、祠を去っていく。
その背を、姿を消してずっと見つめていたウィズダムは、ふと口を開いた。
『あれでよかったのか?』
『ああ、上出来だ』
その瞬間、ウィズダム以外誰もいなかったはずのその場所に、彼以外の声が響いた。
少し遅れて、彼の傍に闇が噴出す。
それは一瞬で消え去り、その後には1人の青年の姿があった。
いや、青年という表現はおかしい。
それは青年の姿をした存在だった。
『協力を感謝する』
薄く微笑んでそう言ったのは、彼女たちの旅が始まってから、ずっと彼女を追いかけている精霊だった。
彼――ダークネスは満足そうに笑うと、彼女たちが出て行った先を見つめる。
既に森に入ってしまっていてその姿は見えないはずなのだけれど、彼には彼女たちの姿がはっきりと見えているようだった。
その目が、僅かに細められる。
『それにしても、シルヴァン帝国、ね……』
ぽつりと呟かれたのは、先ほど彼女たちの話題に上っていた、今は存在しない国の名前だった。
『不必要な心配なんだけどな』
その呟きを耳にして、ウィズダムはほんの少しだけ眉を寄せる。
けれど、すぐにこの件を頼まれたときに告げられた言葉を思い出し、ため息をついた。
今ベリーが探している鍵は、実は全部で7つなのだ。
それぞれの鍵に七大属性の魔力がそれぞれひとつずつ込められていて、それを鍵にすることで呪文書が開く仕組みになっているのだという。
だから、残っている鍵はあと3つ。
この世界には、彼女たちが訪れたエスクール、マジック共和国、トランストン、ジパング、ゴルキドの他に3つ国がある。
残りの鍵のうち、1つはエスクールに存在するということになっている。
だから、残りの鍵は2つ。
そのうち1つは、先ほどウィズダムが彼女たちに告げたスターシアにある。
その国の鍵を手に入れてしまえば、残りは1つとなる。
ベリーの知る国は、エルランド、ジュエル、シルヴァン帝国の3つ。
このうち法国と名乗っていたジュエルは、ミルザが自身の持ち物を封印する旅より以前に異空間に封じている。
封印が解かれたのは1年ほど前の話。
だから、それより後の旅で隠された鍵とやらがジュエルにあるはずがない。
となれば、残るはエルランドとシルヴァン帝国の2択という考えになるのだろう。
そこまで考えて、ウィズダムは気づく。
ダークネスの零した言葉に含まれた事実に。
そして納得をしてから彼を見て、小さくため息をついた。
『……少し、かまいすぎではないか?』
次の国で彼女たちをどう導こうか悩んでいるらしいダークネスに声をかけたのは、無意識だった。
驚いた様子で自分を見るダークネスに心情を悟られないように気をつけながら、ウィズダムは再び言葉を声に載せる。
『大事なのは分かるが、もう少し放任したらどうだ?』
『あんたには言われたくないけどな』
そう告げれば、苦笑交じりのそんな言葉が返ってきた。
ダークネスの深い紫の瞳が、ほんの少しだけ細められる。
『前回は召喚主なしでずいぶんでしゃばったそうじゃねえか、“竜”さん?』
『私は主を守ろうとしていただけだ』
前回――ペリドットとあの悪魔の戦いで、ウィズダムの主であるミスリルは生死を彷徨った。
その彼女を守ろうとしただけで、ペリドットを助けようとしたわけではない。
『そちらこそ、ずいぶんでしゃばっているように思うが?』
『他の奴らが放置しすぎなんだよ』
嫌味を返してやれば、ダークネスはいけしゃあしゃあとそう答える。
彼はそう言うが、ウィズダムからしてみればかなり手を出しすぎだと感じた。
自分たち人間が上位種族と呼ぶ存在は、基本的に『人間』には間接的に手を貸すことはあっても、直接的には手を貸さないようにしている。
今回のダークネスのこれは、姿は見せていないとはいえ、ミルザの姿をした幻影を使い、直接彼女たちに手を貸しているように見えた。
だからこそ、ウィズダムは告げる。
警告の意味を込めて。
『甘やかしてもロクなことはないと思うが?』
『普通の人間ならな』
けれども、ダークネスはさらりと交わす。
再びウィズダムが何かを告げようとした、そのときだった。
『それに、今回は時間がない』
それまでの軽さを含んだ声ではなく、重さを感じる声でダークネスが呟いた。
突然変化した彼の雰囲気に、ウィズダムは喉まで出かけていた言葉を飲み込む。
くすりと小さな笑いが聞こえたかと思うと、その深い紫の瞳がこちらを見た。
『あんただって、感じてるんだろう?』
そう尋ねられ、ウィズダムは僅かに目を細め、ダークネスを睨みつける。
『だから、精霊神との盟約を破ってまで力を貸すと?』
『マリエス様とミルザの盟約は破っていないさ。……“あの人”も動いているくらいだからな』
『あの人?』
彼の口から出てきた言葉に、思わず眉を寄せる。
彼ら精霊がそう呼ぶ存在を、ウィズダムは思いつかない。
いや、正確には、思いつくが、現状でそれに当たるだろう存在はいない、と言うべきか。
彼のその心情をダークネスは読み取ったらしい。
『あんたも会ったんだろう?あの悪魔にレインが襲われたときに』
苦笑して尋ねられた、その言葉。
それに当たる人物を瞬時に思い出して、ウィズダムは目を見開いた。
『まさか……』
『そのまさかだ』
ダークネスが、ウィズダムが口に仕掛けた言葉を肯定する。
その途端、ウィズダムの瞳はますます見開かれた。
額から汗が流れ落ち、無意識にごくりと息を呑む。
彼らにとって、『その人物が動いた』という事実は、大きな衝撃だった。
衝撃に震えるウィズダムから、ダークネスは不意に視線を逸らす。
その目は、ゆっくりと上へ向けられた。
この祠には、天井はない。
上を見上げれば、そこにはぽっかりと穴が開き、そこから空が見えていた。
『歪みもどんどん大きくなっている』
ぽつりとダークネスが呟く。
『もうあまり、時間は残されていないのかもな』
彼がそう口にした瞬間、空気が震えたような気がした。
ぴしりという音が、2人の耳に届く。
驚いたウィズダムが辺りを見回すが、そこには何もない。
少女たちが来る前とほとんど変わらない祠が目に入るだけだ。
変化といえば、ベリーがはずした像の首が、そのまま地面に置かれてしまったことくらいだろう。
それを見て、気づく。
あの音は、この場でしたわけではないことに。
『……そのようだな』
目を細め、ウィズダムが答えを返す。
それを聞いたダークネスは、空を見上げるのをやめ、再びウィズダムへと視線を戻した。
『俺は自分の役目を果たすつもりだが、あんたは?』
『そうだな……』
ウィズダムが静かに目を閉じる。
暫くそうしてから、彼はゆっくりと目を開けた。
『ならば私は、楔の代わりをするとしよう』
ウィズダムが両手を広げる。
その姿が、だんだんと薄くなる。
『この気配の消えるときまで、異世界の扉が開かぬようにな』
そう告げると、彼は姿を消した。
空気の溶け込むようにできなく、空気の中に飛び込むように。
その姿をダークネスは見送る。
何も声をかけることなく、黙って彼を送り出す。
暫く、何かを言いたそうにウィズダムのいた場所を見つめていた彼も、再び噴出した闇の中へと姿を消した。
2人の姿がなくなると同時に、地響きが起こる。
先ほどベリーたちが開いた扉が、ゆっくりと動き出す。
時間をかけてゆっくりと、その扉はその場所を、再び壁の中へと封じていく。
完全にそこが閉ざされたときには、そこは何事もなかったかのように静まり返っていた。