Chapter7 吸血鬼
5:事前準備
紫色の髪が、外の暗闇へと消える。
その姿を見えなくなるまで見送ると、彼は後ろを振り返った。
『……で?お前はいつまで不満そうな顔でそこにいるんだよ』
声をかけた途端、それまで誰もいなかったはずのその場所に炎が吹き上がる。
炎はそのまま人の形に燃え上がり、天井に向かって消えていく。
熱も感じないそれがなくなったあと、その場所には1人の男が立っていた。
炎のような赤い髪を持つ男の、やはり炎の色のような赤い目が、こちらを睨みつける。
それを見て、彼は口元に弧を描いたまま目を細めた。
『よう。久しぶりだな。元気だったか?サラマンダー』
『……ああ、久しいなダークネス』
声をかければ、赤い男はこちらを睨みつけるような視線のまま言葉を返す。
それを聞くと、ダークネスはあからさまなため息をついて見せた。
『相変わらずお堅いな。ダークでいいんだぜ?サラン』
『略称は好まん』
『ああ、そう』
あっさりとそう言われてしまえば、それ以上続ける気はない。
気の遠くなるほどの長い付き合いだ。
これ以上何か言っても無駄だということは知っていた。
それくらい、火を司っているこの男は堅いのだ。
彼の上位者である、『あの人』とは正反対で。
『そーいや俺のことをダークって呼んでたのは、お前じゃなくてお前のとこの主さんだったな』
『……』
ぽつり、ふと思い出した人のことを口にした途端、赤い瞳がさらに鋭くなり、ぎょろりとこちらを睨みつけた。
『……っと。怖い顔するなよ。取る気はねぇんだから。今も昔も』
慌てて身を引いてそう言っても、サラマンダーはこちらを睨むのをやめようとはしない。
『俺には俺の女神様がちゃんといるしな』
だから、そう言ったのは駄目押しのようなもののつもりだった。
だが、サラマンダーはそうは取らなかったらしい。
『だから渡したのか』
『……さてね』
先ほどとは違う意味で目を細め、尋ねた彼から、ダークネスは視線を逸らす。
それを、またマイナスの意味で取ったらしい。
再び睨みつけてくるサラマンダーを横目で見て、わざと笑顔を浮かべて尋ねた。
『睨むなよ。それとも何か?マリエス様がお怒りとか?』
『……いいや』
その問いに、サラマンダーは静かに首を振る。
それに、心の内で安堵した。
今回のことは、自分たちの長であるマリエスの許可もなく、勝手にやったことだという認識はちゃんとしていた。
それでお咎めがあるのではないかと、警戒していたのは事実だったのだ。
『じゃあ嫉妬か?お前だけだもんな。会えてないの』
『そんなものではない。時期が早いのではないかと思っただけだ』
『またまた~』
茶化すように声をかけた途端、より強い炎を宿した瞳がぎろりとこちらを向く。
『ダーク』
『うおっ、こわっ!そんなときばっかり略すなよな!』
思わず後ろに跳び退けるば、彼はふんっとばかりに視線を逸らした。
本当は会いたいくせに、本当に素直でない奴だ、と思う。
こいつの『母』と呼べる存在はもう少しさばさばとした性格をしていた。
なのに、どうして『子供』と呼べるこいつは、こんなにも頑固なのか。
まあ、正反対な俺が言えることじゃないけどな。
そこまで意識を向けてしまってから、はっと我に返る。
どうやら、自分も彼のことを笑えない程度に、『女神』に焦がれているらしい。
らしくないと思いながら、ダークネスは視線を逸らした。
目に入ったのは、自身を象徴した石像。
部屋の隅に置かれたそれが乗る台座を見て、彼は目を細めた。
『……実はそうでもねぇんだよ』
『何?』
きっと、サラマンダーにはすぐには何の話かわからなかっただろう。
それを理解しつつ、続ける。
『あいつ、あのときあの人の力で消滅したと思ったんだけどな』
『あいつ……?』
一瞬不思議そうに眉を寄せたサラマンダーは、しかし次の瞬間驚きに目を見開いた。
『まさか……っ!?』
『ああ、そのまさかだ』
はっきりと、肯定する。
その途端、サラマンダーが息を呑んだ音が聞こえたような気がした。
その彼に向かって、振り返る。
『俺たちが思っている以上に、“あれ”の綻びは進んでるらしいぜ?』
そう言ったダークネスの顔には、自嘲じみた笑みが浮かんでいた。
「は?」
久しぶりに顔を出した後輩が口にした言葉に、百合は思わず目を瞬かせた。
まるで何かを聞き間違えたかと言わんばかりのその表情に、言葉の主――鈴美は思わす背眉を寄せる。
「だから、少しの間休学したいんです」
今度こそ、はっきりとその言葉を口にする。
口調を『普通』に戻したしまおうかとも思ったけれど、やめた。
アースにいるときは、まだ自分はこの口調なのだというイメージが強く染み付いていると知っていたから。
「休学って、何でまた?」
「まさか鈴ちゃん。向こうで何かあったの?」
沙織が眉を寄せ、紀美子が不安そうに尋ねる。
もうこれはパターンだろう。
自分たちがこんな話をし出すとき、それはインシングで何かが起こったときだったから。
けれど、今回は違う。
だから鈴美ははっきりとそれを否定する。
「いいえ、違うわ」
「なら何で……?」
それでも尚、紀美子が不安そうに問いかけてくる。
今までのことを考えれば、否定をしても不安になることは仕方ないかもしれない。
けれど、この立場になってしまうと思う。
その心配が、今は煩わしい。
「私の、個人的な問題よ」
少し突き放すようにして答えると、紀美子はまだ不安そうな顔をしていたが、それ以上は何もいうことができなかったらしい。
戸惑ったように開きかけた口を閉じた。
「個人的な問題って、何かしら?」
その代わりと言わんばかりに、今度は目の前にいる百合が尋ねてくる。
「……それは……」
「言えないようじゃ、許可は出せないわね」
「……っ、先輩……っ」
あっさりと言い放たれ、鈴美は思わず百合を睨み付ける。
ぎろりと、常の『表面上の彼女』を知っている者なら確実に怯んでしまいそうなその表情にも、慣れている百合は動じない。
それどころか、それ以上の鋭い目で鈴美を睨み返す。
「私は、あなたの友人である前に理事長だから。生徒が理由もなく学校をサボるというなら理事長として叱らなければならない」
「サボりでは……っ」
「私たちは向こうじゃなくって、こっちの人間なのよ、荒谷さん」
はっきりとそう告げられた言葉に棘が含まれている気がして、思わず鈴美は言葉を飲み込む。
それを肯定と受け取ったのか、百合はデスクの上に乗せていた手を胸の前で組むと、鈴美を睨み付ける目をますます細めた。
「本来優先しなければならないことを差し置いて、向こうのことばかり目を向けるのは感心しないわ」
「……っ、向こうのこととは限らないでしょう?」
「じゃあ、他に長期休暇を申請する理由があるの?私たちは、みんな親なしなのに?」
「それは……っ」
百合への反発心から思わず返したその言葉に、彼女はあっさりとそう返す。
それに思わず口篭ってしまえば、百合は今度は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「海外に姉兄がいる美青ならともかく、私たちが身内の事情で休むことはないと思うのだけれど?」
「……っ」
反論ができるはずもない。
自分たちは親はもちろん、親戚がこちらにいるわけでもない。
それがいるのは、海外に姉兄が美青と、父方の親戚がいるこの百合だけなのだ。
他の全員に親戚がいるとしても、その全員がインシングに住んでいるだろうし、そもそも顔どころか名前も知らない。
生きているかどうかすら、わからない。
だからその手は使えるはずがないと、百合は指摘する。
普段の鈴美なら、「それが何だ」とか「論点が違う」などと言って冷静に切り替えしていただろうに、早く出発したい焦りのためか、今はそれができずにいた。
だから、まさか彼女から助け舟のような言葉が割り込んでくるなんて、思わなかった。
「いい加減にしてやれば?理事長」
自分の背中から聞こえたその声に、鈴美は思わず振り返る。
今は黒い瞳を向けたそのときには、応接ソファに座ったまま、先ほどまで我関せずとばかりに携帯ゲームをしていた赤美がいた。
その目はいつの間にかゲームの画面から離れ、真っ直ぐにこちらに――いや、百合に向けられていた。
「あんた、ホントはわかってるんでしょ?」
「姉さん……」
「セキちゃん……」
睨み付けるように、真っ直ぐに百合を見て尋ねる――いや、確認する赤美を、紀美子と実沙が心配そうに呼ぶ。
そんな2人には目をくれることもなく、赤美は真っ直ぐに百合を見つめる。
百合もそれを真っ直ぐに見つめ返し、口を開いた。
「ええ、わかっているわ。だから余計に駄目なのよ」
「はあ?何で?」
「今は、向こうで何か起こっているわけでも、向こうの何かがこっちで何かをしたわけでもないでしょう」
そう。今は何かが起こっているわけでもない。
そんな前兆があるわけでもない。
だからはっきりと百合は告げる。
「だから駄目よ。休学は許可できない」
「どうして?」
けれど、それでは納得できないらしい赤美は、再び聞き返した。
その問いに、百合の表情が僅かに歪む。
「どうしてって、あんたは人の話を……」
「どうして事前準備に行ったらいけないわけ?」
「え……?」
「……っ!?赤美、先輩……!?」
赤美の、おそらく百合にとっては全くの予想外だったその問いに、彼女は思わず口にしかけた言葉を切った。
赤美の言葉に、周囲の友人たちも驚く。
一番驚いたのは鈴美だった。
まさか、ここまで自分の考えを言い当てられるなんて、思っていなかった。
「今何も起きていないからと言って、今後起きないとは限らない。そのための対策をしてたら何がいけないのよ?」
そんな周囲の驚きには目もくれず、赤美は真っ直ぐに百合を見て聞き返す。
「別に何も起こってないからって行かない理由はないでしょ?あたしだって、自分が力を手に入れる可能性があるなら行きたいし」
真っ直ぐに百合を見つめたままの赤美の拳に、僅かに力が込められる。
先ほどの彼女の発言に、唯一驚いたような反応をしなかった美青がそれに気づき、僅かに目を細めた。
「赤美……」
「そんな顔で見ないでくれる?」
一瞬だけ彼女を見て、不機嫌さを隠さずにそう告げると、赤美はすぐに百合へと視線を戻す。
「むしろ、今事前に準備しておけば、今後何かが起こったときに早急な対処ができるかもしれない。それならむしろ好都合なんじゃない?」
「ま、まあ確かにそうだよな」
そう尋ねた赤美の言葉を肯定したのは、百合ではなかった。
全員の視線が、一斉に声の主に向けられる。
視線を集めた当の本人――陽一は一瞬驚いたように体を震わせたけれど、すぐに口を開いた。
「だって、今まで俺たち……というより、お前たちは何か起きてからインシングに行って、精霊神法を探していただろう?その時間が短縮できたとしたら、今まで見たいに被害が広まることも、ないんじゃないかって……」
そこまで口にして、何かの気づいたようにはっと目を瞠る。
「あ……、悪い。今までに文句があるってわけじゃなくってな……!」
「大丈夫。みんなわかってますよ」
慌てて謝罪する彼に、そばにいた紀美子がにこりと微笑む。
けれど、相当悪いと思ってしまったのか、陽一はもう一度小さく謝ると、そのまま口を閉じてしまった。
「だが、確かに陽一の言うとおりだと思うぞ」
直後に発せられたその言葉に、陽一ははっと顔を上げる。
「英里……」
「こちらにいると向こうの情報は、あちらにいるアールやリーナ、ティーチャーに頼ることになる。これまでは私たちが向こうに行っている機会も多かったからまだしも、調査をやめるならそういう時間も減るだろう。そうしたら、対処はますます遅れることになる」
「え?調査、やめちゃうの?」
初めてその話を聞いたのか、紀美子が驚いて姉へと視線を向ける。
「不安要素を調べようとしても、情報が全然手に入らないからね。あたしは、個人でもやるつもりだったけど……」
実際に、ルビーの直感で始めたインシングの伝説などに関する調査は、これまで収穫なんてほとんどなかった。
手に入る情報は何かが起こって誰がインシングを旅した結果に手に入るものがほとんどで、それ以外の場面で情報らしきものを掴めることはなしに等しかったのだ。
「まあ、それはともかく」
はあっと大げさに息を吐くと、赤美はもう一度真っ直ぐに百合へと目を向ける。
「英里が言ったことも含めて、事前準備は必要だと思うわけよ。いくらあたしと鈴美以外の全員が何かしら使えるって言っても、属性の相性みたいなものあるし?今までみたいに、隙を突かれて戦闘不能って可能性もゼロじゃないと思うしね」
一度、赤美の目が伏せられる。
けれどそれは一瞬で、すぐ開かれたそれは、再び真っ直ぐに百合へと向けられた。
「そういう意見を踏まえても、反対なわけ?理事長?」
真っ直ぐに問いかけるその瞳は、常の黒ではなく、赤い光が宿っているような気がした。